ブルートレイン

ブルートレイン

ブルートレイン
ブルートレインが廃止になるとの朝刊の一面記事を読みました。
ブルートレインというのは、特急寝台車の愛称です。昭和47年、東京の大学に進学したのですが、教養課程が1年間だけ三島に指定されたため、初めてブルートレインに乗車して、その地まで赴きました。
出発の1週間前ぐらいだと思いますが、三島での生活に必要な物を詰めた柳コオリ1個と麻の布団袋1個を、高校の同級生のN山が借りてきたリヤカー(彼が、どこから借りて来たのか解りませんでしたが、おそらく漁師さんから借りてきたものと思います。何だか、魚臭かった記憶があります。)に乗せて、山陰本線の安岡の駅まで運び、そこからチッキ(チェック(check)の訛り。鉄道旅客がその乗車券を使って送る手荷物。その引換証。)で三島まで送りました。今の宅急便に当たるものです。
乗車したブルートレインは、西鹿児島発の「あさかぜ」でした。まだ、当時は、新幹線が大阪までしか開通しておらず、下関から東京方面に行くには、「あさかぜ」を利用するのが通常でした。
寝台車で、私が利用するのは、3段ベッドのB寝台です。2段ベッドもあり、それはグリン車両に相当します。私は、背が高いので3段ベッドの上段を利用するのが、常でした。なぜなら、共用の荷物置き場に足を投げ出すことができ、その分、ベッドを広く使うことができるからです。
最初に、下関駅から出発する時、両親と弟、そして親戚の伯父、伯母、いとこが見送りに来てくれました。出発のベルが鳴り、列車が動き出したとき、希望に胸を膨らませていたはずの私の頬に一筋の涙が流れ落ちたことも、青春時代の思い出です。しかも、涙を流したのは私だけではなく、私が出発してから、いっとき、母は台所の隅で泣いていたそうです。父は、そんな母を見て、笑っていたそうですが、きっと、その時、父も唇をかみしめていたのだと思います。
そんな父は、2年前に亡くなり、母は、いまでも、下関で1人で暮らしています。
その後、福岡まで新幹線が開通するまでは、私の帰省の足は、「あさかぜ」のお世話になりました。「あさかぜ」が廃止になったのは、もっと、以前の事だそうですが、今日の朝刊には長崎行の「銀河」なども廃止になると書いてありました。
これ以外に、ブルートレインに乗車したのは、平成5年ごろ北海道に行くために、上野から「北斗星」を利用したことがあります。この時は、ブルートレイン・ブームで、「北斗星」のチケットを入手するのに苦労した覚えがあります。その時、話題の食堂車の予約が取れずに、上野駅で弁当を買い、確か、シャワーチケットは、乗車前に車掌から何とか購入することができました。北海道に何の目的で言ったか?7月の夏競馬の観戦に函館競馬場、札幌競馬場が目的地でした。
あっ、もう一つ。東京に在住していた時、家族で帰省するためにカートレインといって、貨車と寝台車を連結し、貨車に車を乗せて、人間は寝台車に乗車するというブルートレインを利用したこともあります。
随分とお世話になったブルートレインが、時代は、スピードを求め、のんびりした夜行寝台列車は、時代から徐々に消え去っていくということです。