歩調を取れ、前へ!フカダ少年の戦争と恋

歩調を取れ

■歩調を取れ、前へ!フカダ少年の戦争と恋
深田祐介さんは、日本航空のサラリーマンでありながら、文筆活動を続け、「新西洋事情」のエッセイがベストセラーになり、一躍、サラリーマン作家として脚光を浴びたことを覚えています。同じく、同時代(1975年頃)に小椋桂さんが、日本勧業銀行の銀行員でありながら、フォークソングのシンガーソングライターとして、「さらば青春」「俺たちの旅」などを作詞作曲され、こちらも、サラリーマン・フォークシンガーとして脚光を浴び、何故か、私の中で、共通項を持ったお2人です。
その深田祐介さんの少年から青年までの自叙伝がこの小説です。深田さんの生家は、代々、深田銀行(のちの愛知銀行東海銀行)、深田証券などの金融業を営んでおり、裕福な資産家の家で少年時代を過ごしています。学校は、小学校から高校まで、東京のフランス系カトリック校である暁星に通学し、高校の時に洗礼を受けられています。実家は、高校の時に倒産して、高校、大学と苦学されたようですが、その話は、この小説の最後の部分の出来事です。
さて、この小説は、フカダ少年が、暁星中学校に入学するころから、物語が始まります。昭和19年当時の戦時下であり、そろそろ、敗色濃厚な時期でした。中学生も軍事教練に明け暮れる毎日でした。そんな時、ひょんな出来事から大妻女学校の花岡喜代子(エピローグに書かれている「下妻出身の登場人物のひとりは私の身辺にいて、私よりよほど健康状態に恵まれている」その人である。)と出会うこととなります。
小説は、中学時代の軍事教練、東京大空襲そして戦後の混乱期のフカダ少年が経験する様々な出来事で流れて行きます。その中で、喜代子との淡い思い出、さらには、別の女性に抱いた恋心などが綴られています。フカダ少年の実家が疎開していた小田原から近いため、フカダ少年が度々訪れる箱根近辺は、同盟国であるドイツ軍のUボートの乗組員の集結地になっていたり、当時、日本に在住していた外国人(カトリックの宣教師など)の疎開地になっており、さながら外人特区の町だったようです。
この小説で、度々、引用されるのが永井荷風の日記である「断腸亭日乗」(大正6年〜昭和34年まで、荷風81歳で死去するまでの日記で、東京大空襲や東京の風情を記しています。)で、特に、昭和天皇マッカーサーをGHQに訪問した時の記帳は、当時の国民の受けた屈辱感を表現しています。ここに、引用すると、「敗戦国の運命も天子蒙塵の悲報を聞くに至ってはその悲惨もまた極めりというべし」と書かれてます。
そんな時代の中でフカダ少年の恋は、「純愛志向」でした。

「喜代子のイメージはいつも「従妹」のような感じがつきまとう。関係の長さからいえば「恋人」といえぬこともないが、あれは「恋人」ではなく「ガールフレンド」つまり日本語の女友達という気持ちが強いのだ。
 文学少年の私は、恋人と言うのは、アンドレ・ジイドの「狭き門」のアリサや「田園交響曲」のジュルトリュード、堀辰雄の「風たちぬ」の節子のような存在だ、と夢想していた。人生や生命を賭けるべき存在とおもいこんでいたのだ。」

さて、そんなフカダ少年であるが、この呼び名は、喜代子が名付け親だったのです。