書庫の母

書庫の母

■書庫の母
辻井喬の短編小説が5篇ほど収録されています。「落葉」「書庫の母」「いもうと探し」「遅い詫状」「死刑囚と母」「余世」です。
辻井喬の作品は始めて読みましたが、この「書庫の母」に収録されている小説は、読み始めは、自分小説か自分を主題とした随筆かと思いましたが、読み進むに従って、どうも、これは、小説だとわかってきました。何故、そのような勘違いをしたかというと、主人公が「僕」だからです。しかも、内容が、辻井喬の生涯と、どうも重なってくるからです。
辻井喬。本名を、堤清二です。西武グループ創始者堤康次郎と内縁関係にあった青山操との間にできた子供です。辻井喬は、文筆家辻井喬として、多くの小説や歌集を残しています。その名前は、以前から、聞いていましたが、その作品を読んだことはありませんでした。
読後感として、反骨精神が小説に強く表れていると思います。それは、父堤康次郎に対するものでしょうか。そもそも、辻井喬の経歴を知っているので、どうしても、そういった先入観で作品を読んでしまうかもしれません。
「落葉」では、「僕」を含めて、過去の学生運動の同士の死が主題となっており、辻井喬自身が、そういった経歴を持っており、一時は、共産党へ入党もしています。小説では、すべて、仮名となっていますが、辻井喬自身が「僕」のモデルであることを想像させます。
「書庫の母」では、「僕」の母が、歌人として書かれており、その歌人としての母の書庫を「僕」が整理することが仕事であるとしているが、これは、おそらく、自分自身を母に置きかえているのではないかと想像されます。
他の作品でも、「僕」の父が実業家・銀行家であったり、衆議院議長(これは、事実であるが、小説の中では仮名となっている。)であったり、妹がエッセイスト(これも事実ですが、小説の中では仮名となっている。)であったり、やはり、辻井喬自身が「僕」のモデルであることを想像させます。
辻井喬という人物は、興味深い人物であり、父親である堤康次郎との確執で、一時は、堤家を離れ、文筆家として活動していましたが、文筆活動の後は、西武グループの総帥として、実業家としての活動も、ご存じのとおりです。過去の経歴として、共産思想を持っていたにもかかわらず、西武グループという資本主義・自由経済の企業グループの総帥になっていたこと自体、極めて、違和感を持つ人生ですが、文筆家辻井喬と実業家堤清二と二つの人格を持つのが、辻井喬なのです。
小説自体は、正直言って、難しい小説です。大江健三郎と似通った匂いを感じさせます。しかし、文筆家辻井喬が実業家堤清二であり、その二面性を承知して、読んでみると、面白いかも知れませんが、私自身は、あまりにも、世界が違い過ぎる二面性に理解を超えるものを感じます。実業家が文筆家であってはならないという訳ではありませんが、何だか、釈然としないものを感じます。小説は、その小説家の全人格をぶっつけた作品だと思います。そこには、嘘偽りはあってはいけないのです。文筆家辻井喬には、どうしても、私自身、相容れないものを感じるのです。