昔の君と今の君は、何かが違う

さざんか

■昔の君と今の君は、何かが違う
会社の勤務時間の終わりを知らせる、チャイムが社内に鳴る、彼は、パソコンに勤務報告の入力を済ませ、電源を切り、鞄に手帳とペンケースをしまって、帰宅の準備をする。上着を着用して、周囲に「お先に失礼します。」の挨拶を振りまき、エレベーターホールに向かい、エレベーターは鈍いロープの摺れる音を立てながら、1階に降りる。
ビルの玄関を出ると、空は、1月頃と比べると、少し、明るさを残している。彼は、薄暮の空を眺めながら、「ふう。」と一息ついて、駅方面に歩みを進める。その時、どこからともなく、彼に、しゃがれたような声が聞こえた。
「君は、昔と違って、何だか、ちょっと変だけど。」
周りを見渡しても、彼の周りには、帰宅を急ぐ数人が信号が青に変わるのを待っているのみで、誰も、彼に声をかけるような知人は見当たらない。
「えっ、僕は、どこも変じゃないよ。」
彼は、誰に返すともなく、つぶやいた。
「少し、沈んだ感じがするけど、気のせいかな。君も、もう、年なのかな。」
「うん、年といえば、もうすぐ50も半ばになるからね。」
信号が青に変わり、人の流れが動き出す。
「でも、50半ばでも元気な人はいっぱいいるよ。」
「そうだね。でも、僕は、今、何をしても、自信を持てないというか、心の中に、小さな不安の泡がブクブクと湧いてはじけているようなんだよね。」
信号を過ぎて、少し、人気の途切れた道に進んでゆく。彼は、以前から、運動を兼ねて、帰宅方向に一駅分ほど余分に歩いている。
「何が、不安の泡ってなんだよ。」
「何が不安の泡なのか解らない。でも、守らないとならない家族もいるし、一応、仕事も責任のある立場にいる。でも、そんなことは、今までだって、そうだったし、今、何故か、と問われても解らない。」
歩いているうちに、薄暮から暗さが増しってきて、街灯の明かりが道を照らすようになってききた。道路を走る車のヘッドライトがまぶしい。
「僕だって、昔のように飲みに出かけたり、何でも無頓着に、自信をもって生きて行きたいよ。でも、何かが、邪魔をしているんだよね。」
「いい年して甘ったれているんじゃないの。守ろうとしているのは、自分自身のことだろう。誰でも、不安をもっているけど、皆、それを乗り越えているんだよね。自分だけが、特別なんじゃやないんだよね。」
しゃがれた声は、少し、強く、響いた。
「そうなんだよね。言われていることは、頭では、理解してるし、そのとおりだと思うよ。」
「考えすぎなんだよ。君は、何でも、そうやって考えるから、不安の泡なんて湧いてくるようになるんだよ。」
「昔、尖った鉛筆のようだと言われたことがある。もっと、丸くなっれて。僕は、尖った鉛筆のまま、この年になっちゃたのかな。そして、尖った鉛筆は折れちゃった。答えを教えてよ。」
「もっと、楽にして、臆病にならないことさ。昔の君のように。」
地下鉄の駅に入る入口の明かりが見えてきて、しゃがれた声は、もう、聞こえなくなりました。