沖で待つ

沖で待つ

沖で待つ

「俺は沖で待つ
 小さな船でおまえがやって来るのを
 俺は大船だ
 なにも怖くないぞ」
大船かよ。
しかし、「沖で待つ」という言葉が妙に心に残りました。もちろんこれを書いた頃、太っちゃんに死の予感があったなんてこれっぽっちも思えないのですが

沖で待つ」絲川秋子著。2006年第134回芥川賞受賞作品です。太っちゃんこと牧原太と私(及川)は、異性同志ですが住宅設備メーカーの同期入社で、しかも、配属先も同じ福岡でした。その後、私は埼玉に転勤になりますが、太っちゃんは、福岡で社内結婚し、その後、東京に単身で赴任してきます。その時、私と太っちゃんは奇妙な約束をしました。
その約束とは、お互いにどちらかが不幸にして死んだ場合には、先に死んだ者のパソコンのハードデイスクを破壊しようという約束です。その履行のために、私は、太っちゃんから、部屋の鍵と工具一式を預かります。もちろん、私も、太っちゃんに部屋の鍵を渡します。太っちゃんが、そんなことを言い出したのは、「お互いパソコンには、他人に見られたくない情報が保存されているものだ。でも、その情報は、消去しただけでは、ちょっとパソコンの知識があればすぐに復旧できる。完全に消し去るには、ハードデイスクを破壊するしかない。」という理由でした。
それから、幾日か日が過ぎて、私の勤務先に太っちゃんが事故で死んだとの連絡が入りました。突然の出来事に私は動揺しましたが、太っちゃんとの約束を履行するために、太っちゃんのアパートに出かけます。そして、約束どおり、太っちゃんのパソコンのハードデイスクを破壊して、外見からは解らないように取り繕いました。
ところが、その後、太っちゃんの福岡の家に行って奥さんから、1冊の大学ノートを見せられました。その大学ノートには、太っちゃんの下手な詩が書かれていました。太っちゃんは、大学ノートを処分することまで、私には依頼しませんでした。

「家に忘れていたノートがあったとは迂闊だった、よな」
太っちゃんは、ちょっと笑って、その間にしゃくりがはさまりました。
「でも俺にとってはもう過ぎちゃっ、たことなんだよなあ」
太っちゃん、死んでるんだもんね、とは言えませんでした。けれど彼は明らかにそれを自覚しているようでした。

小説は小作品であらすじは、以上のとおりです。タイトルを見て漁師が主人公の小説かと思いましたが、まったくの勘違いで、サラリーマンのありがちな日常を描くとともに、デジタルとアナログの価値を私と太っちゃんのやり取りの中で、小説の主題としたかったのでしょうか?あまりに、あらすじが単純すぎて、作者の小説に対する意図が伝わりにくいと感じました。単行本に、「沖で待つ」と「勤労感謝の日」の2作品が収録されていますが、どちらも、読み物として、軽くて、肩の凝らない作品でした。
それにしても、芥川賞にしては、深みのない作品ではないでしょうか。失礼ですが、最近の芥川賞は、この程度の小説が受賞するのかと思うとちょっと残念です。第1回の石川達三の「蒼氓」と比べると小説の質が異なっているようです。もちろん、時代が違うと言ってしまえばそれまでですが、そう言えば、今年の受賞作品「乳と卵」数年前には「蛇とピアス」などタイトルを見て読む意欲がなくなるように思います。私は、ここ数年、芥川賞直木賞などの小説に与えられる賞に敬意は表しますが、敢えて、その受賞作を進んで読もうとはしません。