風立ちぬ

風立ちぬ

風立ちぬ

風立ちぬ 今は秋
今日から私は 心の旅人

松田聖子のヒット曲です。しかし、私が、これから紹介するのは、タイトルは同じですが、堀辰雄の1938年(昭和13年)に単行本として発行された「風立ちぬ」です。おそらく、松田聖子のヒット曲の作詞家松本隆は、この堀辰雄の小説「風立ちぬ」のタイトルを借用して詩のタイトルとしたのでしょう。
三宮の行きつけの本屋さんジュンク堂(雑学ですが、ジュンク堂は、創業者である現社長の父親の名前(工藤淳)から命名され、神戸元町にオープンしたのが第1号店です。)で、書棚を見ていて、ふと目についたのが「風立ちぬ」と「檸檬」(梶井基次郎)の文庫本です。私は、子供の頃から、少しは本を読む方でしたが、この2冊は、今まで読んでみたいと思っていましたが、ついにこの歳まで、読む機会に恵まれなく、思わず、この2冊を取り上げ購入しました。いずれの作品も、昭和初期のものであり、現代文学と区分けするとすれば近代文学とも言われるものです。
風立ちぬ」は「序曲」、「春」、「風立ちぬ」、「冬」、「死のかげの谷」の5編で構成されています。「序曲」、「春」では、私と節子のまさに序曲と春です。

それらの夏の日々、一面に薄の生い茂った草原の中で、お前が立ったまま熱心に絵を描いていると、私はいつもその傍らの一本の白樺の木陰に身を横たえていたものだった。

「序曲」の書き出しです。「それらの夏の日々」とは、どういう意味でしょう。「それら」とは、私と節子の2人を指すのでしょうか。出だしから、考えさせられる小説です。これが、現代小説にはないものです。何でもストレートに表現されて、すべて読者が、背景を見通せる。これでは、小説は、面白くないのではないでしょうか?

それは、私達がはじめて出会ったもう2年前にもなる夏の頃、不意に私の口を衝いて出た。そしてそれから私が何ということもなしに口ずさむことを好んでいた。
風立ちぬ、いざ生きめやも。
という詩句が、それきりずっと忘れていたのに、又ひょっくりと私達に蘇ってきたほどの、−云わば人生に先立った、人生そのもよりもかもっと生き生きと、もっと切ないまでに愉しい日々であった。

風立ちぬ、いざ生きめやも。」の一節は、フランスの詩人ポール・ヴァレリーの詩「海辺の墓地」の一句の訳だそうです。節子は、肺病か、結核かで、八ヶ岳山麓サナトリウムに入院することになり、私は、節子に付添って、彼女の病室の横の付添室で暮らすことになります。「風立ちぬ」の編は、私と節子との愛と死を見つめる闘病の生活です。

「おれはお前のことを小説に書こうと思うのだよ。それより他のことは今おれには考えられそうもないのだ。おれ達がこうしてお互いに与え合っているこの幸福、―皆がもう行き止まりだと思っているところから始まっているようなこの生の愉しさ、―そう云った誰も知らないような、おれ達だけのもを、おれはもっと確実なものに、そうすこし形をなしたものに置き換えたいのだ。分るだろう。」
「分かるわ」彼女は自分自身の考えでも逐うかのように私の考えを逐っていたらしく、それにすぐ応じた。が、それから口をすこし歪めるように笑いながら、
「私のことならどうでもお好きなようにお書きなさいな」と私を軽く遇うように言い足した。私はしかし、その言葉を率直に受け取った。
「ああ、それはおれの好きなように書くともさ。・・・・・・が、今度の奴はお前にもたんと助力して貰わなければならないのだよ」
「私にも出来ることなの?」
「ああ、お前にはね、おれの仕事の間、頭から足のさきまで幸福になっていて貰いたいんだ。そうでないと・・・・・」

この1節を3度、読み返していただきたい。そうすると、私と節子の愛の深さが読者に伝わってきます。
「冬」、「死のかげの谷」の節は、日記風になり、日付が付記されています。「冬」の節では、私と節子は、どんどん節子の死に向かいあうことになります。そして、「死のかげの谷」の節は、私はある村の小屋で、1人、リルケの「レクイエム」を読み返すのです。その最後の数行がこの小説の仕舞いとなります。

帰っていらっしゃるな。そしてもしお前に我慢できたら、
死者達の間に死んでお出。死者にもたんと仕事はある。
けれども私に助力はしておくれ、お前の気を散らさない程度で、
しばしば遠くのものが私に助力をしてくれるように―私の裡で。

是非、「風立ちぬ」の節子を覚えておいてください。