檸檬

レモン

檸檬
今週の水曜日の朝刊の一面に面白い囲み記事がありました。梶井基次郎の小説「檸檬」が高校の国語の教科書に教材として載っているのですが、資料として、大正時代の「丸善京都支店」の写真が掲載されており、そのことが、民間会社の広告に該当するということで、写真の「丸善京都支店」の看板の部分をぼかすということです。記事は、事実のみで何の論調も記載されていませんでした。
まあ、そこまでは、「檸檬」の舞台が「丸善京都支店」のため、当時の社会風情を写真で紹介したのだろうと思いますが、たまたま、看板が写っているからといって、そこまでする必要があるのだろうかと、ちょっと、首を傾げながら読みました。記事は、さらに続いています。「檸檬」には7回ほど「丸善」の社名が出てくるが、これを消去することも議論されたとあります。さすがに、この議論は、実行されなかったようですが、この議論を誰が言い出したかは、記載されていませんでした。
檸檬」は、梶井基次郎の代表作と言われています。文庫本で10頁程度の私小説で、かつ、短小説です。梶井基次郎は、大正後年から昭和初年にかけて、文壇とは関係を持たずに、短小説を同人誌に発表し、31歳の若さで亡くなっています。従って、生前に、その名前は、世間では、まったく知られていませんでした。彼の名前が、知られるようになったのは、彼の死後です。どうして、彼の小説が、世に出るようになったのかは、知りませんが、後年、梶井文学とも称されるようになり、昭和初期の一つの代表的な作品集と位置付けられています。
さて、「檸檬」ですが、舞台は、京都です。梶井基次郎は、第三高等学校に学んでいたので、彼の住んだ京都が舞台になったのでしょう。彼は、落ちぶれた生活の中で、以前、好きだった「丸善」に行きます。そして、画本を積み上げて、その頂上に、果物屋で買った一つの檸檬を乗せて、「丸善」を立ち去ります。この短い小説の中で「丸善」の名前が7回出て来ることを確認しました。この「丸善」の社名を消去して、「檸檬」を教科書に載せることは、まったく、無意味です。落ちぶれた主人公にとって、「丸善」は、贅沢の象徴だったのです。まさに、この小説の主題を消去するようなものだからです。

察しはつくだろうが私にはまるで金がなかった。とは言えそんなものを見て少しでも心の動きかけた時の私自身を慰めるた為には贅沢ということが必要であった。
生活がまだ蝕まれていなかった以前私の好きであった所は、例えば丸善であった。

この後、主人公は、「丸善」に入って、先ほどの妙な行動をする。そして、主人公は、次のような思いを抱き、彼の持つ「得体のしれない不吉な塊」から解放されようとする。

変にくすぐったい気持が街の上の私を微笑ませた。丸善の棚へ黄金色に輝く恐ろしい爆弾を仕掛けて来た奇怪な悪漢が私で、もう十分後にはあの丸善が美術の棚を中心として大爆発をするのだったらどんなに面白いだろう。

梶井基次郎の小説のほとんどがデカダンスと向かいあうものであり、飽食の時代の高校生にどう理解されるのか、この小説を、教材としたことの目的が、私には興味があります。