「Tomorrow」―(living will)

トルコキキョウ

先週の日曜劇場「Tomorrow」は、「リビング・ウィル」(living will)がテーマでした。当然の脳幹出血により、意識不明となった患者が発生、そのまま意識を取り戻さなければ、遷延性意識障害、いわゆる植物状態になる可能性があるという。その患者は、「リビング・ウィル」(living will)を生前に書いていました。夫は、そのことを隠して、人工呼吸器をつける延命措置を選択します。

リビング・ウィル」(living will)
『私は、私の傷病が不治であり、かつ、死が迫っている場合に備えて、私の家族、縁者ならびに私の医療に携わっている方々に次の要望を宣言致します。
 この宣言書は、私の精神が健全な状態にある時に書いたものであります。
 従って、私の精神が健全な状態にある時に私自身が破棄するか、または、撤回する旨の文書を作成しない限り有効であります。 
 私の傷病が、現代の医学では不治の状態であり、既に死期が迫っていると診断された場合には徒に死期を引き延ばすための延命措置は一切おことわりいたします。
 ただし、この場合、私の苦痛を和らげる処置は最大限に実施して下さい。そのため、たとえば麻薬などの副作用で死ぬ時期が早まったとしても、一向にかまいません。
 私が数ケ月以上に渉って、いわゆる植物状態に陥った時は、一切の生命維持装置を取りやめて下さい。
 以上、私の宣言による要望を忠実に果たしてくださった方々に深く感謝申し上げるとともに、その方々が私の要望に従って下さった行為一切の責任は私自身にあることを附記いたします。
                                   署名 捺印』

ところが、夫は悩んだ末、妻の尊厳死を求め、人工呼吸器の取り外しを医師に依頼する。医師は、夫の要望を入れ、人工呼吸器をはずし、患者は静かな「死」を迎えます。
尊厳死」について、考えさせられる番組でした。
尊厳死」は、日本では、まだ、法制化せれておらず、処置をした医師は、刑法上は、殺人罪もしくは嘱託殺人罪の罪に問われる恐れがあります。「リビング・ウィル」(living will)が、遺言書として法的な手続きがなされている場合にでも、自分の「生命」に対する「自己決定権」は、まだ、認められていません。
このドラマでの医師の措置は、延命措置をする前であれば、延命措置をしないことは、不作為のため、罪に問われる可能性は低いですが、一旦、延命措置を講じておきながら、これを作為的に取り除く行為は、罪に問われる可能性が、高いと言えます。実は、ドラマでは、この点には、一切、触れていません。
ドラマが、医師の倫理、法的問題よりは、人間としての夫の妻への「愛」という情実の問題を主題にしているからです。
振り返って、人に自分の生命を左右する「自己決定権」というものが、あるのでしょうか?現代社会において、あらゆる分野で「自己決定権」という概念が、まるで「基本的人権」から派生した問題のように、議論されています。
基本的人権」は、為政者の圧政、弾圧などから国民を守るために、生存権的権利として発展してきました。いわゆる人間として生きるために最低必要な権利です。もちろん、この権利も、時代の変革によって、更に、高度化していきます。
しかし、「基本的人権」と「自己決定権」は、区別して、議論する必要があります。人は、社会生活の中に生存しているのです。1人では、生きていけません。「自己決定権」は、自己中心的な、利己的な考え方だと、私は、思います。
「死ぬ権利」は人にはありません。ドラマの患者は、「リビング・ウィル」(living will)に次のことを付け加えています。「あなたが、私が生きていることで、癒されるなら、生かしていてください。」残る人は、奇跡を信じます。何時、妻が目を覚ますか。そんな奇跡を待つのです。私は、妻の死に「自己決定権」は認めません。私自身も「生かされる権利」を求めます。そんな、「尊厳生」があってもいいのではないでしょうか?それは、医師の倫理や法的責任の回避などとは、別の次元の問題だと思います。