「眠れぬ真珠」

「眠れぬ真珠」

「眠れぬ真珠」
石田 衣良
新潮文庫
平成20年12月1日発行
514円

『北の空を開いた天窓を見あげた。星はない。夜空より一段暗い雲の影もない。濃紺のガラスを薄く切りだして、ななめにはめこんだ平面の空だった。』

石田衣良氏の小説は、季節の描写、天気の描写、とくに空の描写が私を楽しませます。この小説の出だしも、天窓から見る北の夜空の描写から始まります。
主人公は、内田咲世子。四十五歳。独身。若いころに結婚に一度失敗した。子供はいない。両親は亡くなって久しく。ほかに家族はいない。父親が遺してくれた逗子湾を望む披露山庭園住宅にある小さな別荘に住んでいる。その家にあるアトリエが彼女の仕事場である。

咲世子が主につかっている銅板画の技法はメゾチントという。通常のドライ・ポイントやビュランでは銅板の黒くしたい部分を刃で削っていくのだが、メゾチントでは最初に全体にこまかな傷をつけ、黒い画面をつくっておく。ざらざらの刃がびっしりと半円形に生えそろったロッカーで、赤銅色に輝く表面を角度を変えて数十回目立てする。銅の表面がすきまなく傷ついて、そこにインクがのる。スクレーバーと呼ばれる先のとがった鉄筆を使って、銅板のまくれを削りとり、白い部分を掘り起こしていくのだ。闇のなかに光りの刃をふるう作業だった。メゾチントで表現される黒は、やわらかく緻密で、上等なカシミアの黒いマフラーや月のない夏の夜空に動く雲のようだと咲世子は思っていた。』

咲世子は、銅板画の画家ですが、もっぱら、新聞や雑誌の挿絵を専業として、芸術画家ではありません。この小説には、銅板画の技法や表現する世界の描写がおおくあります。それは、この小説で石田氏が表現したい世界が、銅板画で表現される「黒と白の世界」と共通しているからではないでしょうか。
あるとき、咲世子は、映像の世界で失敗して、東京を離れて逗子で充電中の十七歳年下の素樹に出会います。そして、咲世子は、不似合いな相手だと分かりながらも、だんだんと、若い素樹に惹かれていきます。素樹も、版画と映像と分野は異なりますが、同じ表現者の先輩である咲世子の生き方に興味を持っていきます。
そのことに、うすうす気づいた画廊のオーナーで、銀座のクラブも経営する中原町枝が、かわいがっている咲世子に、忠告します。

『「そう。女はね。二種類に分かれるの。ダイヤモンドの女とパールの女。光を外側に放つタイプと内側に引き込むタイプ。幸せになるのは、男たちの誰にでも値段がわかるゴージャスなダイヤモンドの女ね。真珠のよしあしがわかる男なんて、めったにいないから」』

若く美しい素樹の恋人ノアの存在。咲世子の心は、揺れ動きます。なんどもなんども、諦めようと思いながらも、惹かれていく女の心。銅板画という芸術の世界と十七歳も若い男に惹かれていく女の恋心。石田ワールドの恋愛小説です。