「享保のロンリー・エレファント」

「享保のロンリー・エレファント」

享保のロンリー・エレファント」
薄井 ゆうじ
岩波書店
2008年5月30日発行
1900円(神戸市立図書館)

享保十三(1728)年
 徳川吉宗に所望された象が長崎の湊に着いた
 そして象は陸路、徒歩で江戸城に向かった・・・』

享保十三(1728)年6月7日、安南(いまのベトナム)から、牡牝(オスメス)2頭の象が、徳川吉宗に献上されるためにつれてこられたことは、史実です。牡は7才、牝は5才でしたが、牝は長崎滞在中の9月に死亡しました。その後、なかなか吉宗のお目通りかなわず、1年後に、漸く、牡が、江戸城に向かって陸路、徒歩で、江戸に出発しました。何故、1年も吉宗は、象を長崎に滞在させたのか。

『長旅で疲労している象の健康が回復するまで、しばらく長崎に留め置くべし。
 長崎から江戸まで、最速の飛脚が昼夜交代で走りつづけても六日かかる。知らせを受けた吉宗は、象を見たいからすぐに連れてまいれ、と返答すると誰もが思ったが、いまは民に贅沢を禁じ、幕府や諸藩には節約を奨励している。吉宗自らが大食いの象を飼うという贅沢を憚ったのだろう。』

この本は、享保年間に日本に渡来した象を題材にして、長崎に滞在中の象の医師の話、象が江戸に行くまでの宿場での話、江戸に到着して象の餌を手配する話、象に対面する吉宗の話などの物語の数話で構成されています。
江戸時代、現代のように動物園がないので、象を見た人は、ほとんどいないでしょう。鎖国政策のため、海外に日本人が出ていくこともありません。その時代に、象を見た日本人の驚きは想像もつきません。当時、神社の絵馬などには、象の絵が霊獣として描かれており、象を見ると病が治るなど様々の言い伝えがあったようです。

『巷間、麻疹と疱瘡には白牛の糞が効く、と囁かれておりました。白牛が効くなら、零獣である象の糞は何倍と効くはずだと、長助は象の糞に「象洞」という名前を付けて売り出しました。
 象の糞を丸めただけの丸薬は飛ぶように売れ、長助はさらに大きな金を掴むようになりました。象が来て一年ほど経つころには江戸ばかりでなく、駿府、京都、大坂にも「象洞」の店を出して手広い商いへと拡大していったのです。』

この牡の象は、江戸に到着後、浜離宮の象舎でしばらく、暮らしていたようですが、象の餌の手配や糞の処理の困った幕府は、象を払下げ、象は、中野村にもらわれていきました。そこで、見世物になるなどして、寛永2年(1743)年に病死したそうです。日本に来て15年、22歳の若さ(象の寿命は人間とほぼ同じ)でした。おそらく、日本の環境にも慣れず、餌も十分ではなく、かわいそうな一生だったと思います。

『吾輩は、象である。
 鼻が長いのは、千里先の香りを嗅ぐため。
 耳が大きいのは、万里先の音を聞くため。』

従四位の「享保の象」の物語です。