今年も、新米がやってきた。

民俗館

11月のある火曜日の夜、8時頃、携帯がブルブルと揺れて、着信を知らせます。こんな時間に、メールがくるなんて、何だろう?と、携帯のメール受信ボックスをひらいてみると、「あら、懐かしい。」新潟の新発田の友人からのメールです。『ご無沙汰です。今年も新米を送りました。明日の夕方には、着くと思います。今年の新米は、収穫はやっと平年並みでしたが、品位は良かったようです。御笑味の程を!』
5〜6年前だったろうか?年賀状の交換はしていましたが、大学卒業以来、ほとんど、20年以上も逢ったことがなかった友人です。その時も、突然です。そして、その時も、夜の8時頃の電話でした。「もしもし、俺だよ。Aだよ。久しぶりだな。」と電話口から遠い昔に聞き覚えのある声が響きます。「えっ、Aか?おう、どうした?」突然の電話に、びっくりです。「いやいや、今度、大阪に出張で行くことになった。時間があったら、逢えないかな。」
早速、「大丈夫、大丈夫。大阪に行くよ。」と、彼と再会の約束をしました。それから、私の頭は、彼と出会った20年以上前にタイムスリップしたのです。N大学法学部のN研究室では、20数人の現役学生、受験浪人が、毎日、朝から晩まで、飼い葉桶に顔をつっこむようにして司法試験の受験勉強をしています。彼は、その研究室での同期生です。東京の神保町のビルの5階のエレベーターを降りて、薄暗い廊下を右手に行くと、学校の教室があり、そこの入口に「N研究室」と墨書された看板があります。
入口をそっと開けると、図書館の自習室のような構造ですが、一人ずつに三方が衝立のように目隠しされた机が与えられています。その机の上には、すすけた天井から、一つずつ蛍光灯がぶら下がっており、その下に、顔を机にこすりつけるようにして、本を読んでいる頭が見えます。私は、その研究室に5年間、在籍して、受験勉強と受験を繰り返しましたが、ある時、夢に見切りを付けて、今の会社に就職したのです。
彼は、私より、もう3年ぐらい受験勉強と受験を続けたと思います。私の就職後は、何度か、私の諦めた夢を追い続ける彼と仲間の激励に、そこを訪れた記憶があります。しかし、そのうちに、彼も、ついに、夢に見切りを付けて、故郷である新潟へ戻りました。その後、彼が、どのような生活をしているのか、私は、知ることもありませんでしたが、年1回の年賀状の交換だけは続いていました。
終業時刻が待ち遠しく思われた1日でしたが、チャイムとともに、神戸から大阪に向けて押っ取り刀で、会社を退出しました。冬の夕暮れは、早く、大阪に着いた頃には、もう、真っ暗です。彼の指定したホテルのロビーで彼を待っていると、エレベーターホールから、懐かしい顔がにこにこしながら近づいてきました。「やあ」「おう」20年ぶりの再会にしては、簡単な挨拶。男というものは、愛想のないものです。でも、2人には、その短い言葉で十分だったのです。
その再会から、5〜6年が過ぎました。私は、神戸、彼は、新潟のため、再び逢うチャンスは、なかなか訪れませんが、毎年、11月になると、彼から新潟産コシヒカリが送られてきます。お礼として、私は、「灘の木一本」の「福寿」を送ります。酒所の新潟へは、失礼かも知れませんが、まるで、「新米を精製、醸造して、お酒にする。」という洒落のようなものです。こんな洒落っ気が、通用するのが、学生時代の友人です。