「ウエハースの椅子」

ウエハースの椅子

「ウエハースの椅子」
 江國 香織
 新潮文庫
 平成21年11月1日発行
 514円

2009年5月23日のブログで、江國香織さんの「がらくた」を酷評しました。昨年、懲りもせずに、綺麗なカバーに引き寄せられて、またしても、江國さんの文庫本を買ってしまいました。買ってしまってから、(あっ、江國さんの小説は??)と思いだして、しばらく、書棚に積んでおきましたが、もったいないので、とりあえず読みました。案の定、私の感性とは、別の世界を表現している江國ワールドには、付いていけませんでした。

『かつて、私は子供で、子供というものがおそらくみんなそうであるように、絶望していた。絶望は永遠の状態として、ただそこにあった。そもそものはじめから。
だからいまでも私たちは親しい。
やあ。
それはときどきそう言って、旧友を訪ねるみたいに私に会いにくる。やあ、ただいま。』

小説の書き出しです。なかなか、小説は、冒頭からその小説の世界には入り込めないものです。そんなことは、当然、理解しています。この小説の冒頭に現れた「絶望」って、いったい何者なのでしょうか?「絶望」は、時折、予告もなくあらわれます。小説の終盤になって、だんだん「絶望」の意味がみえてきました。もう一度、頁をめくってみると、「ああ、絶望って、頭の中のもう一人の自分ってことか。」と納得しました。
この江國小説は、当然、恋愛小説です。いまや、恋愛小説の旗手ともいうべき、江國香織さんですから。しかしながら、ちょっと、技法を弄しすぎたのではないかという感じです。小説の特徴として、主人公の「私」は、「私」。「恋人」は、「恋人」。「妹」は、「妹」。「妹の恋人」は、「大学院生」っていう表現で、それぞれ、名前は付けられていません。もう一つの特徴として、センテンスが短い。これは、少し、辟易しました。センテンスが、長いと息切れしますが、短すぎるのも、イライラします。
主人公の「私」は、中年の独身で、画家です。彼女には、恋人がいます。「恋人」は、彼女の家に、定期的に訪れますが、もちろん、「恋人」との関係は、不倫です。小説は、「私」の過去(子供時代)のこと、画家の仕事のこと、「妹」のこと、「妹」の恋人の「大学院生」のこと、「恋人」とのこと、などなどが、絡み合いながら、やがて、「私」は、みちたりた生活の中に、閉じ込められてしまいます。そこから、「絶望」が、「私」を訪れてくるのです。

『子供のころ、私のいちばん好きなおやつはウエハースだった。
 さっくとした厚みのあるやつではなくて、白い、薄い、手のひらの湿度だけでくにゃりとしてしまいそうなほどはかないやつだ。不用意に口に入れると上あごにくっついてしまうような。
 私はあの白いウエハースの、きちんとした形が気に入っていた。もろいくせにみごとにスクエアな、きちんとした、ほそながい。私はそれで椅子をつくった。小さな、きれいな、そして、誰も座れない。
 ウエハースの椅子は、私にとって幸福のイメージそのものだ。目の前にあるのに、そして、椅子のくせに、決して腰をおろせない。』