「露の玉垣」

露の玉垣

「露の玉垣
 乙川 優三郎
 新潮文庫
 平成22年7月1日発行
 514円

毎月、10日頃、本屋さんを覗いて、「文藝春秋」と面白そうな文庫本を2〜3冊購入します。そのほかに、2週間に一度、図書館に行って、単行本を1冊借りてきます。これが、私の1月の読書量です。左程、多くはありませんが、電車での通勤時間の往復1時間程度と帰宅後の就寝前の30分程度の読書時間からするとこれが精一杯かもしれません。
先月、本屋さんで「新発田藩の史実に基づく歴史小説集」という文庫本の帯を見つけて、手に取ったのがこの本です。学生時代の友人で、新発田出身のY・I君がいますが、彼が、毎年、新米の季節になると新潟産のお米を送ってくれます。私は、その米を酒に変えて、灘の木一本を送ります。数年来、そういった付き合いをしている友人を思いだしながら、この小説を読みました。

『越後の蒲原平野を領地にしている藩では米のほかこれといった特産物がなく、財政を稲作に頼るしかないのも弱点であった。広大な平地と水に恵まれていながら潟や湿地が多く、ひとたび川が氾濫すると文字通り努力は水泡に帰してしまう。つい五年前にも四万七千石の水損があったが、一度失ったものは取り返すことができない。そういう土地であった。』

越後と言えば、江戸時代から米どころで裕福な地味かと思っていましたが、非常に水害の多い土地柄で、一端、川が決壊して氾濫すると、その土地は、稲作に適さず、別の土地を開墾することになると言います。そのため、治水と開墾は、藩を上げての事業ですが、それも、いたちごっこの様相でした。武家も、倹約、倹約の繰り返しで、知行は、満足に支給されず、貧困との闘いであったようです。そんな時代を生き抜く、新発田藩士の物語を8編の短編に納めています。

『慶長三年に藩祖の溝口秀勝新発田へ入封したとき、領内の石高は六万石で、その後一万石を支藩のために分知して五万石になったものの、ひたすら新田開発を続けて実高は優に九万石を超えるまでになっていた。にもかかわらず一年の遣り繰りにも困るのは、領地の大半が水田の単作地帯であるために災禍の波をもろに被るからで、豊かに見えながら実は壊れやすい土台に立っていたのである。その土台を必死に守ろうとして治水事業に総力を使い果たした結果、守り切れずに転落する道を辿ってきたのだった。』

新発田藩は、そもそも、外様大名でしたが、江戸時代を通じて、国替えもなく、300年新発田の土地を守ってきました。世の中は、徳川の太平といっても、米どころがこの有様では、他は推して知るべし、徳川は、貧困の時代だったのではと思います。

『家臣の遠祖からはじめて、分かる限り人間の歴史を書こうと思うのは、よくも悪くも新発田に生きて消えていった人々だからである。譜代の世臣はもちろん、零落して喘ぎながらも生き継いでいる家々、不運にも絶えてしまった家々の隠れた功労を自分なりに顕彰したい。御記録の編纂に関わり、自ら歴代藩主の事跡を記してきた彼は、むしろ浮き沈みの激しい家臣たちの苦楽こそが藩の本当の歴史ではないのかと思うようになっていた。往々にして列伝が本紀よりも生々しい濃さで胸に迫ってくるのも、そういうことではないだろうか。』

溝口半兵衛は、御記録を編纂する役目から、さらに、自ら家臣の「世臣譜」を書き記すことを生涯の勤めとしました。「露」とは、家臣。「玉垣」とは、神社の囲いのことであり、この囲いに家臣の名前を記すという意味から、この「世臣譜」を「露の玉垣」と名付けました。