「明日の記憶」

tetu-eng2010-11-13

明日の記憶
萩原 浩
光文社文庫
2007年11月20日発行
650円

『「誰だっけ。ほら、あの人」
最近、こんなせりふが多くなった。
「俳優だよ。あれに出てた。外国の俳優だ」
 代名詞ばかりで、固有名詞が出てこない。会議室に並んだ顔が一斉に見つめてくるのだが、炭酸ガスのように頭の中から抜け出てしまった人名を、私はいっこうに思い出すことができなかった。その男優の姿形は浮かんでくるし、何年か前にヒットした主演映画のニュースや宣伝は嫌というほど目にしていたはずなのだが。最初のひと文字は「キ」?いや違う。「ブ」だったけ?』

こんなことは、「知天命」の節目を過ぎれば誰でも、経験することでしょう。私も、ご多分にもれず日常茶飯事です。ときには、同僚の名前でさへも、とっさに思い出せずに、廊下ですれ違って挨拶を交わすのに気まずくなったということは、もう、数えきれません。それでも、まさか自分がアルツハイマーだとは思わないでしょう。たんに、物忘れがひどくなったと嘆くのが関の山だと思います。

『俺は、いったい、何の病気なのだ?
 医師が私の目を見ずに言った。
「まだ確定ではありません。しかし、申し上げておいたほうがいいと思います。
「・・・・癌ですか」
 なぜか私の口からは、そんな言葉が飛び出した。枝美子が喉の奥でかすかな悲鳴をあげたのがわかった。
「いえ」
 医師は片手を振って即座に否定する。だが、それは私を安心させる動作ではなかった。表情は厳しいままだった。
 私の顔と枝美子の顔を見比べて、それから医師は言った。
「おそらく若年性アルツハイマーの初期症状だと思われます」
 頭の上に、空が落ちてきた。』

広告代理店の営業部長の佐伯は、物忘れのひどさもさることながら、体の全身の倦怠感、めまい、不眠、集中力不足などの諸症状に悩まされていました。ちょうど、大きな仕事の契約を取れるかどうかの瀬戸際。佐伯は、無理に、無理を、重ねるように仕事に没頭しますが、徐々に、「どうも、おかしい」と感じるようになりました。妻の枝美子の勧めもあり、また、睡眠薬を処方してもらうために精神科を受診することとしました。CTスキャン、MRIなどの検査を済ませて、その結論は、「若年性アルツハイマー」。
ここから、佐伯と枝美子との「若年性アルツハイマー」との「闘い」というより「克服」「付き合い」が始まります。1人娘の結婚を終えるまでは、何とか、現役でいたい。佐伯は、ポケットにメモの束を抱えながら、「記憶」を「記録」することの繰り返しを続けますが、佐伯の「記憶」からは、やがて、妻と娘との思い出も奪われていきます。失われていく記憶は蘇ることはありません。しかし、佐伯は、枝美子との「穏やかな生活」への一歩を踏み出していきます。萩原さんの小説は、初めて読みました。私にとって、とても刺激的な内容の小説でしたが、平易な文章と構成の柔らかさが、テーマの刺激性を和らげてくれます。敢えて、言わせてもらいますが、「今年一番」の小説でした。中高年の方には、是非、お薦めの一冊です。