「吾輩は猫である」

tetu-eng2013-02-17

吾輩は猫である
夏目 漱石
文春文庫
2011年11月10日第1冊
638円(税別)

 先日、長崎の友人から宅急便で野菜(大根、白菜、里芋、ジャガイモ)が送られてきました。里芋は、親イモで店頭には出ないものだとの注釈。野菜には、門外漢の私にも、「これは、玄人はだし」だと感心し、友人からの思いがけないプレゼントに「感謝、感謝」の言葉のみでした。この歳になると、そう易々とは、感激はしませんが、細君ともども、この野菜のプレゼントには、久々の感激でした。

 さて、先週の予告どおりに、今週は、「吾輩は猫である」の読書雑感です。何故、今、「猫」か?「文春文庫最新刊」「目に優しい大きな活字」「現代感覚に即した注釈」の文庫本の帯の文字にひかれて、3冊目、いや、3匹目の「猫」です。書棚には、大正十五年(初版発行)の岩波夏目漱石全集(こいつは、価値本)と昭和47年発行(昭和52年第10刷発行)講談社文庫の「猫」が鎮座しています。だから3匹目です。

 『吾輩は猫である。名前はまだない。』

 この冒頭は、誰でも、ご存じのとおりです。さて、この「猫」。ここから先を読むのは、結構、胆力が入ります。何故ならば、現代小説と比べて、正直に言えば、「難しい」、でも、古典落語を聞くように「面白い」。ただし、注釈を読みながらでないと、「意味不明の人物、事柄など」のオンパレード。兎に角、漱石の博学には、驚きます。

 名前のない猫のご主人は、珍野苦沙弥(くしゃみ)先生。この先生、生業(なりわい)は、学校の英語の教師。モデルは、漱石自身とのこと。この先生の家での日常の出来事、この家を訪れる面々と先生のやり取りなどを猫の目から見て、克明に描写した記録が、この小説です。先生の家族構成は、奥さんと三人娘(上の二人が幼稚園、三番目は姉の尻についてさえ行かれないくらい小さい)、下女のおさんの六人暮らし。

 今回は、読書雑感として、2つほど紹介します。まずは、この小説の結末は、紹介しちゃいましょう。最後に、吾輩こと「名前のない猫」は、主人たちの飲み残したビールを舐めすぎて、酔っ払ってしまいます。その挙句に、甕に中に落っこちてしまい、溺死することになります。これが、この小説の結末です。

 『次第に楽になってくる。苦しいいのだかありがたいのだか見当がつかない。水の中にいるのだか、座敷の上にいるのだか、判然としない。どこにどうしていても差し支えない。ただ楽である。否楽そのものすらも感じ得ない。日月を切り落とし、天地を粉せいして不可思議の太平に入る。吾輩は死ぬ。死んでこの太平を得る。太平は死ななければ得られぬ。南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏。ありがたいありがたい。』

 もうひとつ。先ほど、下女の名前を「おさん」と書きましたが、実は、「おさん」とは、「下女、女中」(「おさん」は、「おさんどん」の略)の意味であり、本当の名前は、「清」でした。小説では、全編にわたって、「おさん」と記述したり、「下女」と記述したり、バラバラです。ところが、小説の結末の前に、

 『「清(きよ)や、清や」と細君が下女を呼ぶ声がする。』

 もう、お解りでしょう。「清」は、「坊ちゃん」の唯一の理解者である下女の「清」と同名だったのです。私は、今まで、「猫」の下女は、「おさん」だと思い込んでいましたが、最後の最後で、「清」がご登場になるとは、これまた、驚きです。小説って、面白いですね。