「島津奔る 上・下」

tetu-eng2015-05-24

「島津奔る 上・下」
池宮 彰一�欖
新潮文庫
平成13年6月1日第1刷
上・下とも667円(税別)

親爺が晩年、「島津奔る」は、面白いぞ。って、言っていました。歴史小説が好きで、司馬遼太郎の「坂の上の雲」は、暗記するじゃないかと思うほど、幾度も、幾度も、読んでいました。あるとき、病院に見舞いに行ったとき、「坂の上の雲」の文庫本全8巻のうち第5巻を持ってきてくれと頼まれました。5巻に何が書いてあったかは忘れましたが、たぶん、お気に入りの下りがあったのでしょう。

ぼくも、蛙の子は蛙で、歴史小説は好きでしたが、最近、体力の低下とともに、気力も低下して、カジュアルで、ライトなノベルの方が、楽になってきました。この本は、最近、会社の前のイベントホールで神戸古本市が開催されていたので、ぶらりと寄って冷やかしていたら、親爺の言葉を思い出し、購入したものです。

池宮彰一�欖さんは、もう、数年前にお亡くなりになっていますが、「四十七人の刺客」などに代表される歴史小説家です。確か、還暦過ぎてから、作家になられたので、活動期間は、短かったと思います。司馬遼太郎に傾注するあまり、この作品は、司馬さんの「関ヶ原」からの盗作疑惑をかけられ、回収、絶版となったと記憶しています。そういった曰く付きの歴史小説です。

『一同は、息を呑んで、義弘の言葉に聞き入った。
「その一つは、わが国土と領民を守るためである。国土を侵され、領民のいのちと暮らしが危殆に瀕する事があれば、武士たる者はおのれのいのちを捨てて戦をせねばならん。それが武士の生き甲斐であり、侍のこの世にある意義・・・・」
義弘は、息を継いで語り続けた。
「いま一つは、薩摩隼人の尊厳と誇りのためである。いたずらに争いを好むわけではないが、理不尽に尊厳を傷つけられて膝を屈するのは、薩摩隼人の本分に背く。侍は誇り高く、美しゅう生きねばならん。そのためにはいのちを捨ててかかれ、それが武士の本義である」
義弘は、決意を眉間に漂わせ、強く言った。
「その二つのために、その方どもを国許から呼んだ。内府と治部少がそれぞれ十万の兵を募り戦する。われらはわずか千名余、物の数ではないが、薩摩隼人の心意気を示すには事足りよう。その方らのいのちと引き替えに薩摩の国はわしが守る。存分に働いてくれい。頼むぞ。」』

関ヶ原の天下分け目の合戦。島津家は、西軍の治部少石田三成に与力しました。関ヶ原の合戦は、みなさん、ご存じのとおり。東軍の内大臣徳川家康と西軍の豊臣恩顧の治部少石田三成の大戦(いくさ)です。戦いは、当初、西軍有利に運びますが、小早川秀秋の寝返りにより、形勢は一気に逆転して、東軍の勝利となります。

この関ヶ原の合戦島津義弘という稀代の戦略家をメインキャストとして、歴史的な公証を交えながら、また、池宮史観をくわえて小説として仕上げたのが「島津奔る」です。「島津奔る」の意味は、延々、薩摩からお家の一大事と、島津の家来衆が、関ヶ原を目指して、ボロボロになりながら奔りに奔ったというエピソードをタイトルにしています。ほんとに、奔ったか?については、エビデンスはないようなので、そのことは、池宮史観でしょう。

ぼくが興味を持ったのは、薩摩の島津は、何故、徳川300年を生き延び、明治維新を成し遂げたのか?このとき、西軍の総大将は、毛利輝元。いずれも、明治維新の原動力となった藩です。その謎は、「関ヶ原」にあるのでは?歴史ミステリーですね。