「新老人の思想」

tetu-eng2015-06-07

「新老人の思想」
五木 寛之
幻冬舎新書
2013年12月10日第1刷

五木寛之さんは、1932年生なので、ぼくより、21歳も上です。この本を書いたのが、2年前として81歳のころですね。五木さんといえば、「青春の門」ですよね。1976年ごろなので、ぼくは、まだ、中学生です。読んだのは、高校生の頃だったかな。もう、思い出せないぐらい昔のことです。

『加齢というというものは、残酷なものだ。視力も落ちる。聴力も、反射神経もおとろえる。歯もガタガタになる。記憶力も、判断力も、いやおうなしに低下してくる。べつにこれという病気はないのに、体が昔のように自由に動かない。オシッコさえも力なくチョロチョロと流れ落ちるだけだ。』

漸く、還暦をちょいと過ぎたぼくには、まだ、加齢の残酷さは判りませんが、「べつにこれという病気はない」というのは、うらやましい。五木さんは、健康診断を受けたことがないらしい。それでも、80歳まで、元気かどうかは知りませんが、こうやって、頻繁に本を上梓している。

ぼくは、どうかと言えば、日々、睡眠に苦労している。人は、人生の1/3は寝ています。この寝ると言うことに大変な労力を費やす不幸は、これは、体験した人にしか判らない。すこし、愚痴を言わせてもらう。

「寝られない。」というと、「寝ようと思わなければいい。」と人はいう。それは、風邪を引いた人に、風邪にならなければいい、といっているようなもので、まったく、論理的ではない。せめて、「それは、お気の毒です。」ぐらいは、言って欲しいものである。酷い人になる、「寝なくても死にはしない。」という。まあ、善意に解して励ましてくれているのでしょう。

おまけに、最近の健康診断で、ショッキングな結果がでた。おかげで、不安のスパイラルに迷い込む。五木さんは、健康診断を受けないという。体は、正直であり、何か異常があれば症状がでる。症状がでれば、医者に行けばいい。ところが、健康診断は、症状がないのに要検査などの黄信号を発する。無責任と言えば、無責任。じゃあ、五木さんのように健康診断を受けなければいいということになる。それも、そうはいかない。結局、優柔不断な性格が、不安という後遺症を残して、そして、寝付きの悪さとなる。

『年をとると自然の老化があらゆる面で露呈する。
それを少しでもくい止めようと、アンチエイジングという発想が流行しているらしい。しかし、老化は自然の成りゆきであって、病気ではない。
アンチ、アンチと騒ぐよりも、むしろナチュラル・エイジングを考えるべきではないだろうか。
などと、偉そうなことをいっているが、たとえ自然の摂理ではあっても、心身の老化はまことに不快なものである。』

ぼくは、人生訓の本で、五木さんや瀬戸内寂聴さんの書かれたものを、よく読みます。寂聴さんは、五木さんより、十歳上です。昨年、胆管がんの手術をうけられて、もう、寝たきりになるかと思ったそうですが、今年、復帰されて、法話の会を再開されたようです。この法話が、大人気だそうです。ツイッターでも、寂聴さんのbotは、愛読しています。今も、「いろんな経験をしてきたからこそ、あなたの今があるのです。すべてに感謝しましょう。」を読んだところです。

この本を読みながら、五木さんも歳をとったなという感想です。若いときには、もっと、迫力があった。でも、ぼくが、ここで書いたように「愚痴」に似たようなことが書きつづられている。人生本ならば、人に夢と希望をあたえるのがいい。たとえ、絵空事でも、笑ってしまうようなものがいい。そして、いま、寂聴さんの「あなたの人生を照らす瀬戸内寂聴希望のことば77」(婦人公論別冊)のページをめくっています。