「太陽の棘(とげ)」

tetu-eng2017-01-15

「太陽の棘(とげ)」 
原田 マハ
文春文庫
2016年11月10日第1刷発行

先週、金曜日から3連休の日曜日まで、風邪で寝込みました。

金曜日、朝から鼻水が止まらない。地下鉄の座席で、周囲の乗客に嫌がられながらも、鼻水をかむ作業が続きました。午前中は、頭がボンヤリしていましたが、まだ、熱は出ていないようです。それでも、とにかく体がだるいので、午後からの休暇を決断。そそくさと、退社しました。

家について、熱を測ってみると、やや微熱あり。そのまま、パジャマに着替えてベッドインです。夕方の4時ごろに、近所の内科医を受診。

医者「風邪ですか?」
ぼく「鼻水がとまらない。頭がぼんやりする」
医者「熱は、ないようですね。」「風邪ですか?」
「(それは、医者が診断するのであり、患者が判断するのじゃないだろう)」なんて、ぼくの心の声です。
医者「風邪でしょう。」結局、風邪との診断。
医者「インフルエンザの検査をしても、まだ陽性反応は出ません。日曜日になって、38度を超える熱が出たら、救急に行ってください」との、ありがたいお言葉を頂戴しました。

お薬を4日分処方していただき、土曜日、日曜日、微熱のまま高熱になることもなく、ダルイ身体をベッドに横たえて、ゴロゴロしていると、不思議なことに、月曜日の朝には、熱が平熱となり、頭がスッキリしました。

人間、微熱とはいえ、体調を崩すと、随分と、身体がだるくなることを再認識しました。そして、改めて、健康であることの有り難味を感じた、新年早々でした。ということで、先週は、ブログの掲載をお休みいたしました。

『いったい、どういうことなのだろうか。
戦争終結からまもない、米軍占領下の沖縄に、なぜ、これほどまでに高い技術と表現力を持った画家たちがいるんだ?
しかも、こんな何もないような丘の上の森に集まって・・・・。
ここは、まさに芸術家のコロニーのような場所じゃないか。
「ニシムイ」と呼ばれるその場所は、まさしく芸術家たちの聖域(サンクチュアリ)のごとき場所だった。何もかも奪い去られ、破壊された沖縄に、忽然と現れた美のオアシスだった。』

1945年、苛烈を極めた沖縄戦が終わったあと、米軍の若き医官エドワードは、精神科の担当として、沖縄の地に赴任しました。沖縄戦は、米軍の兵士にも後遺症をもたらしていました。その後遺症に対応するため、精神科医として、毎日、忙しい日々を送っていましたが、ある休日、ドライブの途中で見つけた粗末な集落に、エドワードは驚きました。

それは、沖縄の画家たちが集い、暮らしている集落でした。その集落の画家たちの描く絵画は、きわめて個性的(ユニーク)なものでした。そこで、絵画を愛するエドワードは、言葉の壁を越えて、彼らとの交流を楽しむようになります。しかし、そこには、戦争で打ちひしがれた沖縄の実相があらわになってくるのです。

『安っぽい合板の壁には、隙間も見えないほどに、ぎっしりと油絵が掛かっていた。その多くが、風景画だった。
青い海へと続く、白い一本の道。湧き上がる雲をたたえた陽光が満ち溢れる空。うっそうと木々の繁る森。乾いた砂浜に、打ち捨てられた一艘の舟。
女性の人物像も数点、あった。マスタード色の着物を身につけ、頭上に果物を入れたかごを掲げて、ゆったり歩く姿。川で洗濯する、黒髪豊かな若い娘たち
すばやいタッチ、鮮やかな色彩、おおらかな色面。一見すると、セザンヌか、ゴーギャンか、マティスか、フランスのモダン・マスターズの影響を窺わせる作品だ。それでいて、誰にも似ていない。極めて個性的(ユニーク)だ。』