「わしの眼は十年先が見える」

tetu-eng2017-06-25

「わしの眼は十年先が見える」 
(大原孫三郎の生涯)
城山三郎
平成20年11月15日第14刷発行
新潮文庫

『或る晴れた日の夕刻
ぼくは、スターバックスのベンチでコーヒーを飲みながら、何も考えることもなく、ただ所在なく茜色に燃える空を眺めていた。
ベンチの横のペットフックには、相棒のリードがつながっている。そして、足元では、相棒が、ジャーキーを前足で押さえながら、しゃにむに齧っている。ときどき、ジャーキーは相棒の意思に反して、口元から逃げてしまう。そんな様子も、時折、面白げに見ていた。
「かわいい犬ですね」
ふと、顔を上げると女がぼくに声をかけてきた。飛び切りの美人というわけではないが、けっして嫌な雰囲気をもつ女ではなかった。
「ぼくも、犬も、老人です。」
「えっ、綺麗な毛並みですね。」
「そうですか?染めていませんが・・・・。」
「いえ、ワンちゃんです。」
「ワンちゃんですか?」
スターバックスの店内から、「茶色い小瓶」がながれてきて、ぼくのかかとは、音楽に合わせてリズムを踏んでいます。』

という会話の途中で、眼が覚めました。

時計を見ると、まだ、4時半です。細君がいないと、なぜか、早く目が覚めます。眼が覚めるとトイレに行きたくなるのは、老人の習性です。ごそごそと、ベッドから抜け出して、トイレをすませて、とりあえず、もう一度、惰眠をむさぼります。

ブラタモリで「倉敷」が放映されました。倉敷といえば、美観地区・・・クラボウ・・・大原美術館。となれば、大原孫三郎。大原孫三郎って誰?それは、この本を読めば判ります。そこで、この本も、本棚で眠っていたものですが、引っ張り出して読みました。

『孫三郎は昭和十八年はじめに亡くなるが、死に先立って漏らしていたのは、
「わしのはじめた事業でいちばん重荷になるのは、美術館じゃ」
さらに、孫三郎の口癖のひとつは、
「わしの眼は十年先が見える」
であった。
その予言通り、十年後も美術館には客はまばらな日々が続くことになる。日本の社会全体がまだ美術に向ける余裕のない状態であったからである。
美術館は息も絶え絶えに続いていたが、しかし、そうした美術館が実は倉敷の町を救っていた。
昭和七年、満州事変調査のため来日したリットン調査団の一部団員が大原美術館を訪れ、そこにエル・グレコをはじめとする名画の数々が並んでいるのに仰天する。
このことから、日本の地方都市クラシキの名が知られるようになり、太平洋戦争下も、世界的な美術品を焼いてはならぬと、倉敷は爆撃目標から外された、といわれる。』

城山三郎経済小説、特に、財界人をモチーフにした小説は、随分と読みましたが、大原孫三郎は、読みもらしていました。この種の小説は、いい勉強にもなります。経営についての姿勢というか、考え方のお手本の講義を聴講するみたいなものです。たまには、これもあり。