「良寛」

良寛
水上 勉
中公文庫
2019年5月25日改訂6刷

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先週、安田記念で、絶対人気のアーモンドアイ(5歳・牝馬)が負けました。単勝人気1.3倍。当然、アーモンドアイの一着固定で、馬単で勝負。結果は、残念!


最近、競馬のことを書いたことがありませんが、ぼくは、こうみえても・・・どうみえているか分かりませんが、競馬歴約45年の・・・競馬ファンです。中央競馬場は、すべて制覇(札幌、函館、新潟、福島、中山、府中、中京、京都、阪神、小倉)。まあ、自慢にはなりませんが。


あれは、22歳のとき、ところは、水道橋の後楽園の場外馬券売り場、なぜ、そこに行ったのか記憶にありません。どのレースを買ったのか、記憶にありません。ただ、キクノオーとウェスタンリバーという馬名は覚えています。千円が一万円に変身した、いわゆるビギナーズラック。


それから、45年、風邪をひかない年はあっても、勝ち馬投票券を買わない年は、ありません。若い時は、毎週、土日の特別レース(9~11レース)は、必ず、投票していました。赤ペンで印の入った競馬新聞が、半年分、溜まっていました(春・秋のG1シーズンが終了すると廃棄。)


今では、資金も気力も無くなったので、春・秋のG1レースだけは、投票に参加させていただいています。今年も、28日の宝塚記念で、シーズン終了です。コロナの影響で、無観客レース。ぼくの45年の歴史の中で、経験はありませんが、ただ、今年の春のレースは、例年に比べて、一番人気の勝率が高いそうです。


たしかに、春のG1レースの10レース中、一番人気の勝率8割、あと2割も2着という結果でした。おかげで今年は、珍しく、損をしていないという稀有な結果となっています。まあ、競馬はゲームですから、損をしなくて遊べるのが一番です。


ついつい、余談が長くなりました。


良寛さんといえば、皆さんご存知でしょうが、どういったイメージでしょうか?
子供と手鞠歌を歌いながら戯れるお坊さん。では、どういったお坊さんだったのか?その実像は?それに迫ったのが、水上勉の「良寛」です。


ときは、宝暦八年(1758)十二月、新潟出雲崎にて名主の山本以南の長子の栄蔵として生を受ける。ご時世は、第9代将軍徳川家重のもと田沼意次が権勢を奮っていました。長じて、名主見習いとなった栄蔵ではあるが、十八歳のとき、とつぜん、家を捨てて出家する。その詳細については、「良寛」にあります。


『なにゆえに 家をいでしと 折りふしは 心に愧じよ すみぞめの袖』


出雲崎を訪れていた備中玉島の円通寺住職 大忍国仙とともに、諸国行脚の旅をして、円通寺で曹洞派の僧堂生活を12年間実践する。といっても、その間の確たる史実は残っていないらしい。わずかに、民間伝承として、土壁にもたれて昼寝をしているか、子供たちと手鞠などをして遊んでいるか、厳しい修行をした様子はないようです。


国仙遷化の直前、『良也如愚道転寛 謄謄任運得誰看』の印可の偈が与えられる。ここに大愚良寛が誕生した。


その後、円通寺を出て、またまた、諸国行脚の末、故郷の出雲崎へ戻り、国上山五合庵で、まさに詩歌三昧で托鉢の乞食坊主の生活を送った。大愚良寛は、大きなお寺の住職でもなく、聖職者として後世を残したわけでもなく、ただ、何物にもとらわれず、文藝の徒として生涯を送った。


天保二年正月六日、貞心尼に看取とられて七十四歳の生涯を終えた。


『うらをみせて おもてをみせて 散るもみじ』


どうしても、ぼくの疑問は、なぜ、良寛が後世に名を遺したか?在世のときは、乞食生活・・・しかし、その後、良寛の残した漢詩、和歌、俳句、書画などが評価されたのでしょうが、新潟の片田舎の文芸家の発掘のその事情が知りたい。