「晩節における「死」との対峙」(特別寄稿)

「晩節における「死」との対峙」(特別寄稿)

石原慎太郎

文藝春秋

令和3年6月号

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発見しました。

 

発見場所、いつも散歩している家の近くの公園。

 

発見時間、某日、朝6時15分。

 

いつものように、すたこらサッサと歩いて、ふと、目を逸らすと、見かけぬ白い花が咲いている中木(高さ2mぐらい)に気づきました。

 

さっそく、近づいて行って、よ~く、観察しましたが、植物に詳しくないので、すぐに、分かるわけはありません。そこで、「googleレンズ」でE検索・・・これって、とても便利です。すると、なんと、「タチバナ」がヒットしました。

 

さらに、仔細に観察。5弁の白い花、茎に長い棘あり。まちがいありません。ミカン科タチバナ種、日本古来の柑橘類のいわゆる「橘」の木であることを確信しました。

 

古事記には、その実は不老不死の霊薬であることが記されており、京都御所には、「左近の桜」「右近の橘」として植えられており、昨年、平安神宮に行った時も、本殿前には、「左近の桜」「右近の橘」が植えられていました。

 

その文様は、家紋としてもおおく使われ、文化勲章の図案も「タチバナ」らしいです。

 

やや、気になったのは、公園は子供たちの遊び場です。橘の木には、鋭い棘がありますが、子供が引っかけるとケガをする可能性があります。どこかに移植した方がいいかもしれませんね。

 

と、余談が、長くなりました。

 

久しぶりに、石原慎太郎さんの特別寄稿です。軽い脳梗塞に罹患されて、すっかり、見かける場面が少なくなりました。御年88歳とのことです。

 

それでも、筆致は衰えず、生意気なようですが、昔の石原慎太郎さんを彷彿させる文章です。今の若い作家さんには、なかなか、書けない文章だと思います。ただ、気になったのは、「即座」「無類」などの同じ単語が頻出していることかな?まあ、編集者が、チェックしているとは思いますが・・・?

 

傑物、石原慎太郎さん、そろそろ「死」を意識するのは、やむからぬ心理です。かく言う、若輩者のぼくでさえ、「死」にたいする意識は、ないといえば「嘘」になります。最近、「般若心経」「観音経」なぞを手元に置いているのは、その証左でしょう。

 

『私の将来にまざまざと存在する「死」という最後の未来、最後の未知なるものに怯え出来得ればその感触実感に人生の最後の経験として触れたいと願うがそれは所詮生者の奢りでしかありはしまい。

「死」については死んでみなくては分からなし、死が生者の知覚を失うものなら所詮死んでしまってはおいつくものでありはしない。』

 

「死」への予感は、肉体の衰弱がもたらすものであり、これを克服するには、老化を阻止する試みを反復する以外にはない。と、言い切ります。健康年齢を維持するために、日々精進して、「死」への予感を鈍化させることが、「死」に対峙する方策ということか?

 

『晩節において当然対峙を強いられる「死」という「最後の未知」に臆することなく自ら踏み込んで迎え撃つという姿勢こそが己を失うことなく「最後の未来」を迎えるに違いない。』

 

と、結んでいます。「太陽の季節」から今でも、石原節は、健在ですね。