『東京は練馬区の片隅にある都立高校。
あのころ俺はそこの一年生で、彼女 ―斉藤夏姫― は俺らのクラスの担任だった。何しろ大学を出てまだ二年かそこらの若い先生だったし、美人にはめずらしく冗談も通じたし、何よりほかの先生のようにいちいちうるさいことを言ったりしなかったから、みんなからずいぶん懐かれていた。彼女の現国の授業はけっこう面白かった。
でも、卒業後の俺らのクラス会に、彼女が出席したことはなかった。』
俺は、古幡慎一。渾名は「フルチン」。五歳の頃、両親が離婚して、俺を押し付け合い、その結果、見かねて俺を引き取ってくれたのは、母方の祖父母だった。祖父母は、「タカノ理容室」を営んでいて、俺は、じいちゃんとばあちゃんに育てられた。今は、大学生。八月の終わりの頃、バイト先のカフェに夏姫先生が、やってきた。彼女は、5年前から驚くくらい変わっていない。確か、八歳違いのはず。彼女は、俺に気づかなかったが、俺は、すぐに、彼女であることが分かった。
『「九百四十円になります。――― 斉藤先生」
うなずいて千円札を抜き出しかけた彼女が、次の瞬間、ぎょっとなって俺を凝視した。幽霊を見るような顔つきだった。
「驚かせてすいません」と、俺はできるだけ気安く聞こえるように言った。「覚えていますか?古幡慎一です。大泉東の」
ロウ人形みたいに固まっていた彼女の唇が、再び動くまでいったいどれくらいかかっただろう。
「古・・・幡くん?」
まだ半信半疑の様子で彼女はつぶやいた。
「はい」
「・・・・ってあの、1Cの古幡慎一くん?」』
ひょんな機会から、元先生と元教え子との「歳の差恋愛」が始まります。しかし、この「歳の差恋愛」は、一筋縄ではいきません。慎一は、夏姫先生に、もう夢中ですが、夏姫先生には、得体の知れない影があります。慎一の心は、この「影」にかき乱され、「懐疑」と「嫉妬」に支配されます。「フルチンくん」そうじゃないんです。夏姫先生のこと、もっと、きちんと見てください。村山由佳さんの小説は、以前から、読みたいと思っていましたが、漸く、辿り着きました。ヘビーな恋愛小説かと思いきや、割と、ライトな恋愛小説です。「天使の卵」の続編だそうですが、この本から読んでも、大丈夫です。また、機会があれば、彼女の小説を読んでみようと思える作品でした。
『「ねえ、知ってる?」
「うん?」
「ああいうふうに雲間から射す光のこと、何ていうか」
俺が首を横にふると、夏姫さんは言った。
「天使の梯子っていうんですって」』