「クジラアタマの王様」

「クジラアタマの王様」

伊坂幸太郎

新潮文庫

令和4年7月1日 発行

 

「学習帳」 以前、「SCHOOL NOTE 英語罫13段」をウクレレタブ譜に活用していることは書きました。今度は、「学習帳 こくご 15マス」です。写経に活用しています。今回は、「歎異抄 序文」を書きました。

朝早くに目覚めると、「般若心経」などを書いていますが、写経には、ちょうどよいサイズです。ほかにも、硬筆の練習にも使えます。

 

 

最近、100均がお気に入りです。

 

近くに、大きなダイソーが出店したので、散歩の途中に、ちょくちょく、「何か、いいものはないかな?」と物色しています。「学習帳」も、その時に買いました。

 

まあ、それにしても何でもあります。机周りでも、各種付箋、押しピン、クリップ、糊、ブックエンド、ファイリングケースなど・・・文房具ばかりですね。これじゃ、ナガサワ文具店は、往生しまっせ!

 

ナガサワは、ナガサワで、やや高級文具に特化して、それはそれで、文具女子に人気があるようです。そうそう、ノートは、100均のものは、ページ数が少ないので、ぼくは、ナガサワで買ってますね。

 

変わったものでは、爪やすり、スマホに付けるレンズ、自撮り棒なんかもありますよ。もっと変わったものには、写経セットもありますが、うむ、ご利益は如何か?

 

それでも、写経して、龍象院に持っていくと「写経奉納」を受け付けていただけます。大山寺の宝塔に納めて、年末に焚き上げるようです。

 

余談は、ここまでで、今週の読書雑感は、久しぶりの伊坂幸太郎さんです。

 

伊坂さんの小説は、ファンタジックな世界と現実の世界が入り混じって、読者は、何だっか、困惑しますが、きっちり、エンデイングは、「あ~、そうか。」と、マジックにかかったように納得してしまう。うむ、ぼくの中では、マジック小説。

 

「クジラアタマの王様」・・・タイトルが意味不明。書店で、手を出しにくいタイトルです。伊坂さんか、また、やったな。という、感じでしょうか?

 

この小説は、夢の中で出逢う三人の勇士が、現実世界でも、お互いに繋がり合って、様々なトラブルに立ち向かう。夢の中で、負けると、現実世界でも、トラブルとなる。それを、どう乗り越えていくか?

 

ときどき、夢の世界と現実世界に現れる不気味な鳥「ハシビロコウ」は、物語の中で、何を意味するのか?クジラじゃないのですよね?

 

『テレビに映る鳥に視線が引き寄せられた。漫画から現れたかのような、頭でっかちの外見で嘴がやけに大きい。横を向き、じっとしている。動物園で撮影された映像らしく、リポーターらしき女性が、「ハシビロコウはほとんど動きません」と話している。「英語名は、shoebillで、靴のような嘴という意味です」』

 

なんと、終盤には、新型インフルエンザの感染拡大・・・この小説、単行本が出たのが、2019年の7月、現実世界では、12月に確認されたので、伊坂さんは、現在のパンデミックを予見していたのか?

「方丈記」(全)

方丈記」(全)

鴨長明 武田友宏編

ビギナーズ・クラッシク 日本の古典

角川ソフィア文庫

平成19年6月25日 初版発行

令和3年1月15日 24版発行

「これは何でしょう」

 これは「和太鼓のバチ」です。ゲームセンターの太鼓の名人のモノではありません。袋は、細君のお手製。後ろに映っているのは、坐禅用の座蒲(ざふ)。自宅での練習用の太鼓の代用品です。

 

 

今、世界の合言葉は、「NO WAR PLEASE」です。

 

「和太鼓の会」へのお誘いがあり、とりあえず、体験ということで参加してきました。

姿勢、バチの持ち方など基本的なことを教えてもらい、基本的なリズムも教えてもらいました。

 

なんやかんやと練習すること、3時間。汗びっしょり。先輩諸氏の動きを見ながら、見よう見まねで、適当にバチを動かしていましたが、なかなか思うような音は出ません。

そりゃそうでしょう。なんと言っても、初めての和太鼓です。

 

そもそも、バチを振り下ろして、どういう音が出るかも、恐る恐るです。それでも、だんだん、慣れてきて、とりあえず、バチを振り下ろして、太鼓を叩くことはできました。それはそれで、スッキリするし、結構な運動になります。

 

「ドン(右) ド(右) コ(左)」 「ド(右) コ(左) ドン(右)」「サッ(右) ト(右) コ(左) ドッ(右) コイ(左)」などなど。

 

太鼓囃子の4つのパータンを3人で太鼓の周りをまわりながら叩く・・・こんなの最初からできるわけないじゃん!

 

どうも、春の「桜まつり」に参加することを目標としているようです。えらいことに引き込まれました。

 

幼稚園児の学芸会じゃあるまし・・・と、内心、思いながらも、とりあえず、練習あとの反省会を楽しみにして、チャレンジしてみましょうか。って、もう、バチを買ってしまいました。

 

ということで、読書雑感ですが、なんと「方丈記」。

 

「鎌倉殿の13人」には、まだ、出てきませんが、鎌倉時代初期に鴨長明が書いた「方丈記」。原稿用紙に換算して25枚程度の日本三大随筆のひとつです。ちなみに、あと二つは、「枕草子」(清少納言)と「徒然草」(兼好法師)と言われています。

 

『ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず。』

 

最近、人生、晩年の過ごし方について、数々の指南書のブームですが、千年、読み継がれてきた晩節考のバイブルではないでしょうか。

 

「広さはわずかに方丈」(3メートル四方)の粗末な庵で、念仏を唱え、和歌を詠み、琵琶を奏でて、お一人様の隠遁生活を愉しむ・・・そして、誰に看取られることもなく、ひとり息を引き取る。見事な人生のピリオッド。

 

『それ、三界は、ただ心ひとつなり。心、もし安からずは、象馬・七珍もよしなく、宮殿・楼閣も望みなし。今、寂しき住まひ、一間の庵、みづからこれを愛す。』

 

現代の小説もいいけれど、時には、こういった古典を顧みるのも、また、愉しいのでは。角川ソフィア文庫は、お手頃ですよ。

「雲と風と 伝教大師最澄の生涯」

永井路子

中公文庫

1990年6月9日 初版発行

2021年9月25日 改版発行

 

「一隅を照らす」

「一隅を照らす、これ即ち国宝なり」目の前のこと、自分にできることをやろう。目立たず、おごらず、ただひたすらに。

 

 

今、世界の合言葉は、「NO WAR PLEASE」です。

 

このところ、旧統一教会の問題で、やたらと宗教の話題がニュースになりますが、なぜ、日本人は、セクトやカルトに陥りやすいのか?との疑問。

 

あるコメンテーターは、日本人は核となる宗教がないからではないか。

 

これは、うなずける意見かもしれません。

 

ということで、

 

探していた本を見つけました。ジュンク堂に入荷していました。

 

2021年が、「最澄1200年大遠忌」。最澄が入寂して、弘仁13年(822年)から1200年ということらしい。その記念として、30年前の永井路子さんの「雲と風 伝教大師最澄の生涯」が改版発行されていました。

 

ちなみに、永井路子さんは、御年97歳の歴史小説家でした。もう30年前に引退を公表したと思います。最近、消息を聞きませんが、お元気でしょうか?

 

同時代の空海については、司馬遼太郎の「空海の風景」など多くの作品があるのですが、最澄については、小説家の作品は、この本ぐらいかも、と思っていたら、巻末の参考文献に瀬戸内寂聴の「伝教大師巡礼」が掲載されていました。そりゃそうですね。瀬戸内寂聴さんは、天台宗の尼僧でした。

 

なぜ、最澄に興味を持ったか?ぼくは、ほとんど無宗教ですが、坐禅会に参加しているお寺が天台宗なので、ときどき、比叡山延暦寺のお話があるので、知識として知っておきたいと思ったこと。

 

もう一つ、「日本の仏教の母山」とも言われる叡山であるにもかかわらず、人気のある空海弘法大師)に比べて、わりと人気薄の最澄。それは、なぜ?

 

頑張って読みましたが、残念ながら、この本、難しすぎました。これは、小説というより、学術書と言っても過言ではありませんでした。

 

唯、空海との対比を次のように書いています。

 

空海の書は芸術としての書を残している。つまり見せるための書である。そのみごとさが嵯峨(天皇)をとりこにするのだが、最澄にはそういう遺品はない。彼はひたすら天台教学のために、つまりわが志をのべるために書くのであって、その書蹟を褒められるために書いてはいない。誠実な書風には一種の風韻があるが、空海の書がプロ意識を持つとすれば、最澄のそれは、アマチュアのすがやかさに満ちている。』

 

たしかに、空海の「風信帖」(空海から最澄への手紙)はお手本になっていますが、最澄の「久隔帖」(最澄から空海への手紙)は評価されていませんね。

 

ということで、今度は、「風信帖」の臨書でもしてみましょうか?いかん、どうも、気が多くて・・・虞世南、王義之を、まず、書き込まなければ。

 

つぶやき、「私の貧幸生活」

つぶやき、「私の貧幸生活」

Y字路 久しぶりのY字路。「病気のデパート」の横尾忠則さん、また、大病を患ったとのこと。でも、復活したようです。まだまだ、お元気で。

 

今、世界の合言葉は、「NO WAR PLEASE」です。

 

倉本聰さん、募集の「私の貧幸生活」。

 

ぼくも応募しました。275通の投稿があったとのこと。ただし、投稿者は、ほとんどがご高齢の皆様とのこと。ぼくも、高齢か。残念ながら、選から漏れたので、この場で、発表します。

 

「清く、正しく、貧幸に」

             

私のプリンシプルは、評論家の故三宅先生から拝借した「愛妻、納税、墓参り」です。が、無所属の時代となってから、「清く、正しく、貧幸に」を加えました。

 

さて、この「貧幸に」の実践例を紹介しましょう。

 

無所属になって、新たに趣味の世界を広げるのは、ご同輩も同じでしょう。私も、お習字を、カッコよく言えば書道を始めました。月1回の作品の提出に向けて、日々、課題を書き込んでいます。

 

さて、この書道では、「紙」「墨」「筆」の三つのアイテムが必要ですが、いずれも、消費を伴うものです。なるべく、無駄のないように心がけています。

 

そこで、実践例その1

 

紙の節約です。書道は、練習すればするほど書き損じの紙が溜まります。子供のころ、母親が、勿体ないと言って、新聞紙を半紙と同じ大きさに切断した紙で練習していました。そこまでは、やっていませんが、書き損じの紙を保存して、次の練習紙として活用しています。

 

白い部分が残っていれば、そこに、細字の練習もできます。とくに、半切紙は、白い部分が多く残るので、筆順の確認などに活用しています。とにかく、紙は真っ黒になるまで使いましょう。

 

実践例その2

 

次は、墨の節約です。固形墨は、最後まで磨り切ることはできません。どうしても、2センチぐらいは残ってしまいます。この残った墨の活用です。それは、新しい墨と接着させて最後まで磨り切る方法です。

 

新しい墨と残った墨の接着面を、きれいに研磨して、粘り気が出るまで磨った墨で接着します。墨には、膠が含まれているので、その作用を活用するのです。肝心なのは、接着面の研磨です。少しでも、凹凸があると、磨る力に負けて、そこから折れてしまいます。

 

今どきは、墨汁を使う方が多いでしょうが、書道は、墨をするのも修行の一つでしょう。

 

実践例その3

 

さて、最後は、筆です。筆が古くなると、書いているときに筆の穂先が割れることがあります。そうなると、もう寿命かな、と思って捨てていませんか。大丈夫です。これは、筆の穂の根元が墨で固まって「しこり」になっているのが原因です。

 

お湯を張った洗面台で、筆の穂の根元を親指と人差し指で丁寧にほぐします。すると、固まっていた墨が溶けだして、「しこり」がなくなり、新品の筆のように書き味が滑らかになります。ちょっと、指が黒くなりますが、1週間もすればきれいになります。

 

細君の絵手紙用の絵筆も、このやり方で洗ってやって、おおいに喜ばれました。

 

以上、三つの小さな「貧幸」、いかがでしたでしょうか?

 

 

当選した投稿を読むと、正直、日本人の文章能力の豊かなことに驚いています。

 

それにしても、ぼくは、何をやっても、「上手くない」。それなのに、いろいろと手をだしたがる。結局、このまま、「上手くない」人生を送るのだろうが、まあ、これが、ぼくの人生でしょう。

 

と、妙に達観した今日この頃。

「おいしいごはんが食べられますように」

「おいしいごはんが食べられますように」

高瀬 隼子

文藝春秋

九月特別号

 

唯々、修行中 右から、虞世南「孔子廟堂碑」、王義之「集字聖教序」、孫過庭「書譜」の臨書のつもり。お習字を始めて、はや3年。唯々、修行あるのみ。今夏は、午前中から30度超。汗を流しながら、タオル鉢巻きで、修行。細君、「バカじゃない!」

 

今、世界の合言葉は、「NO WAR PLEASE」です。

 

(続き、)最近、思うこと。芸事は、手ほどきをしてくれる師匠が必要。お習字、ウクレレ、ハーモニカ、テニス(これは、スクールに行っている・・・が、ちーとも、上達しない)。独学は、難しい。

 

そこで、必要なのが、先人を真似るということ。年金生活で、お教室に通うのは、手元不如意。しからば、「YouTube」のワークショップを活用する。ウクレレ、ハーモニカは、それぞれ、お気に入りチャンネルを登録しています。

 

お習字は、まだ、お気に入りをセレクト中。それよりも、楷書は、虞世南、行書は、王義之、草書は、孫過庭の真似をするのが、いいかも。ということで、その修行を始めましたが、うまく、いきませんね。まあ、ここがスタート。一朝一夕に、上手になるはずはなし。

 

とにかく、生来の生意気な性格、人様に教えを乞うことが苦手。独力で、どの程度、上達するか?どうせ、これで、飯を食うわけでもなく、残りの人生を気ままに過ごすのが、「結構」、というか、それしか無いのです。

 

て、なことを考えていたら、ふと、鴨長明の「方丈記」を読みたくなりました。

 

ここから、本題。

 

今期の芥川賞直木賞は、候補作を含めて、なんと、女性作家が大活躍。男性作家は、一人のみ。史上まれにみる出来事。もはや、文学界は、女性上位の世界。もともと、文学は女性の世界。

 

紫式部清少納言和泉式部・・・・樋口一葉与謝野晶子・・・瀬戸内寂聴田辺聖子いま、読んでいる永井路子・・・数え上げれば、枚挙にいとまない。

 

とくに、ぼくは、女性作家の作品を好みます。有川ひろ、湊かなえ辻村深月三浦しをん瀬尾まいこ原田マハ などなど、こちらも、数え上げれば、きりがない。

 

「おいしいごはんが食べられますように」は、芥川賞受賞作にしては、めずらしいタイトル。ライトノベルみたいですが、・・・?タイトルどおりに食べる、食べる・・・でも、ちょっと、おかしなことも。

 

『「わたしたちは助け合う能力をなくしていってると思うんですよね。昔、多分持っていたものを、手放していっている。その方が生きやすいから。成長として。誰かと食べるごはんより、一人で食べるごはんがおいしいのも、そのひとつで、力強く生きていくために、みんなで食べるごはんがおいしいって感じる能力は、必要でない気がして」』

 

「一人で食べるごはん」がおいしい、と思う今の若い人、これじゃ、結婚しないね。「誰かと食べるごはん」がおいしいから結婚する。食べることの楽しさを失いつつある。これは、多分、幸せなことに飽食の時代が長いからでしょうか。

 

若い人には、「ごはんを食べる」ことは、生き方の大切な一つではなくなっている。そんなことを考えさせる作品なのかな?現代の日本人への「食べる」意識の再確認かもしれない・・・これぞ、純文学。

ぶらり、姫路

ぶらり、姫路

坐禅会 8月は、酷暑のため、坐禅会はお休みの予定でしたが、昨夕、和尚から、暑さの和らいだ夕方の坐禅会の告知。3週間ぶりに「日々新」を念じながら、座りました。が、やっぱ、まだ、暑いですね。

 

 

今、世界の合言葉は、「NO WAR PLEASE」です。

 

久しぶりの「ぶらり」。姫路に行ってきました。姫路と言えば、「姫路城」ですが、今回は、姫路と言っても、ひろ~~~いので、郊外の田園地域の方です。

 

まず、細君の要望で、姫路市香寺町の「日本玩具博物館」へ。ナビが、県道から田んぼの中の田舎道を案内。「こんなところにあるの?」と思っていたら、白壁の蔵造りの建物がありました。

この博物館、まったく個人の収集家の施設でした。国内・国外(160か国)の玩具・人形が約9万点、そのうち、約5千点を展示しているとのこと。館内は、学芸員により綺麗に展示されています。

施設も、展示品も、これらが、すべて、個人ものとは驚きでした。「ダッコちゃん」は懐かしいね。当時、大人も子供も、二の腕に付けていましたね。

 

お昼時になったので、近くの「蕎麦屋」を検索。人気店らしい、手打ち十割蕎麦「大寿庵」で大寿庵御膳をいただきました。この店、古民家風で、ゆったりした座敷、囲炉裏端に入店できるのは4組だけ。予約なしで入店できたのはラッキーだったようです。

お腹を満たしたところで、次は、ご朱印を目当てに、「廣峯神社」です。廣峯山山頂の黒田官兵衛の所縁の神社。本殿の裏側に、九星の守護神が鎮まっており、運命星の穴に向かって願い事を三回ささやくと願いが叶うと言われているというパワースポット。

ぼくの運命星「二黒土星」の穴に願い事をささやきましたが、残念、1回しかささやかなかった。ご利益は、ないかも。

 

3時のお茶の時間。書写山の麓にある今年4月にオープンした「御座候 書写山山麓店」へ。このお店、そう、大判焼の「御座候」のカフェ。

大判焼回転焼き、今川焼など地方によって名前は違いますが、姫路では、「御座候」。

 

お店では、もちろん、「御座候」を焼いていますが、ぼくは、小豆のタルト、細君は、小豆のロールケーキ。

また、来ます。今度は、涼しい季節にテラス席で。

 

「ツナグ 想い人の心得」

「ツナグ 想い人の心得」

辻村 深月

新潮文庫

平成4年7月1日初版

 

「残暑お見舞い」 今年の夏は、とりわけ暑い・・・熱いです。ぼくが部屋でゴソゴソしていると、午前中に、30度を超えて、しかも、湿度が70%。気温はまだしも、湿度が高すぎでしょう。もう、日本は、亜熱帯か。

 

今、世界の合言葉は、「NO WAR PLEASE」です。

 

巻頭のつづき、午前中は、節電に協力して、クーラーを点けていませんが、さすがに、午後は、32度まで上昇すると、クーラーが必要です。そのとき、意識朦朧。

 

会社に行っているときは良かった。行きかえりの暑さを辛抱すれば、事務室は、適温で快適でしたね。どこか。タダで、ゆっくりできて、涼しいところは、ないでしょうか?会社が懐かしい今日この頃です。

 

この頃、ニュースは、「旧統一教会」一辺倒。信教の自由と裏腹の問題であり、難しい問題です。そもそも、宗教は、ある程度は、マインドコントロールはつきものでしょう。「南無阿弥陀仏」も「アーメン」も、神や仏に縋る人間の欲求です。

 

お盆になれば、お坊さんが、カブに乗って走り回っています。檀家は、お布施を払って、先祖供養のため、お経を唱えてもらいます。お寺にお墓があれば、毎月、なにがしかの供養料を求められます。

 

ぼくは、たぶん無信教なので、お盆でも、なにも行事はありません。

 

それでも、お正月は湊川神社に初詣。1年の健康安全を祈願して、熊手、お札、お守りを頂きます。また、ときどき、神社に参拝して、ご朱印を頂きます。

 

そうそう、毎週、龍象院で坐禅会に参加して、「聖観音菩薩」に拝礼します。ときには、「般若心経」を唱えます。

 

あまり議論が白熱して、信教の自由・これは、内心の自由の根幹・を侵害する方向にならないことが肝要です。

 

ここから、「読書雑感」。お盆にピッタリの「ツナグ」です。

 

使者(ツナグ)が仲介して、満月の夜、死者と面会できる。生きている人も死んだ人も、お互いの合意のもとに、1回限りのチャンスである。

 

『死んだ人間と、生きた人間を会わせることができる窓口。

本当だったら永遠に実現するはずのないその面会の依頼を受け、死者と交渉し、場を設定する使者の仕事は、知る人ぞ知る存在で、その存在まで辿れるかどうかはすべて“ご縁”による。そう、先代の使者だった祖母から教えられた。

 どれだけ探しても辿り着けない人もいる一方で、必要な人は不思議と繋がるようになっている。

 そして、その辿り着いた先にあるのが歩美のこの携帯だ。』

 

死んだ人に、もう一度、会えるとしたら、あなたは、誰に会いたいですか?

 

ぼくは、オヤジかな?おふくろかな?でも、チャンスは、1回。一度に二人は、ルール違反。どちらを選んでも、選ばれなかった方がひがみそう。結局、どちらも選べない。

 

この小説は、「ツナグ」の続編です。「想い人の心得」という副題の短編連作になっています。