「秘花」

「秘花」

「秘花」
瀬戸内 寂聴
新潮文庫
平成22年1月1日発行
438円

瀬戸内寂聴八十五歳、畢生(ヒッセイ)の大作!」本の帯のコメントです。「畢生の大作」という言葉は、よく使われますが、まず、「畢生」を「ヒッセイ」と読めますか?意味は。どういう意味でしょうか?「広辞苑」では、命の終わるまでの間。一生涯。終生。この小説は、瀬戸内寂聴さんの一生涯(終生)の大作というコメントです。
話はそれますが、私の使用している「広辞苑」は、(昭和44年5月16日発行)の第二版です。辞書は、語彙が豊富になるだけに、新しいもののほうが使いやすいでしょう。それでも、約40年間も、私の座右で使っていると、それなりに愛着があります。今は、電子辞書が流行りでしょうが、頁をめくり、そして、紙の匂いを嗅ぐ、というのが、味気ない電子辞書にない趣だと思います。やはり、「古い人間」だからでしょうか。

『七歳の春、正式に稽古初めとして、父から稽古を受けた日から、いや、大和の申楽(さるがく)の役者、観阿弥清次の子として、この世に生を受けたその日から、一日として身から離れたことのない芸の稽古の習慣。常住坐臥、すべての立居振舞を、申楽の稽古として厳しく躾られてきた。いつの間にか吸う息、吐く息さえ自分から謡の調子に乗せていた。』

足利(室町)の時代に、父である観阿弥とともに、申楽を現在の「能」という文芸に集大成した世阿弥の生涯を描いた、まさに、寂聴、畢生の大作です。この時代の庶民の娯楽の代表として、猿楽と田楽があったそうです。猿楽は、軽業(曲芸)や物真似、奇術などを見せる芸で、身のこなしが猿のように軽快なことからそう呼ばれ、田楽は田植えの際に豊穣を祈った農村の歌や踊りが演目となったものだそうです。
観阿弥は、猿楽の出自で、猿楽と田楽を融合させて、新しい芸能を興し、「観世座」という名前で興行を重ねるうちに、足利将軍の恩寵を受けるようになりました。世阿弥は、観阿弥の事業を受け継ぎ、さらに、これを発展させようと活動しますが、七十二歳で将軍の不興を被り佐渡へ遠島となります。この小説は、世阿弥佐渡で亡くなる八十一歳までの波乱の生涯を描いたものです。

『七十二歳の老耄(ろうもう)の涯(はて)に、まさかかかる禍々(まがまが)しい悲運が待ち設けていようとは、一介に罪人として京を追われ、佐渡へ流謫(るたく)との将軍義教の沙汰一枚。読み上げる壮年の使者の声と手が異様に震えていた。成行の理不尽さに役目柄とはいえ、平常心を保てなかったのであろう。
世阿弥元清、上をないがしろに、不届きの数々あり。厳罰に値する。よって佐渡流謫の刑に処すものなり」』

久々に、重厚な小説を読みました。八十五歳で、これ程の重厚な小説を書き遂げられる胆力には、驚くだけです。いまは、軽さを売り物にした小説が多いし、私も、読みやすいので、ついつい、軽薄に寄ってしまいます。この種の小説が、読めなくなってしまっては、読み手として申し訳なく思います。小説は、書き手のみではなく、読み手がしっかりしないと、いい小説は、生まれません。
秘すれば花なり。秘せずは花なるべからず」世阿弥の能論学書「風姿花伝」の一節からの「秘花」のタイトルなのでしょう。

『命には終わりあり
 能には果あるべからず』