「のぼうの城」(上・下)

tetu-eng2011-09-04

のぼうの城」(上・下)
和田 竜
小学館
2010年10月11日第1刷
480円

のぼうの城」とは、「武州忍城」を意味します。

武州忍城は、現在の埼玉県行田市に位置した成田氏の居城である。
 成田氏はその系図をたどれば、大化の改新で功があった藤原鎌足に行き着く名族で、北は利根川、南は荒川に挟まれた行田市周辺の一帯を領していたらしい。
 成田氏の業績を記した『成田記』によると、忍城は「智仁勇の三徳を備えた武将」といわれ、成田家の所領を飛躍的に拡大させた十五代親泰(ちかやす)が築城したという。
 いまは、十五代親泰を経て、上杉謙信とも一戦を交えた十六代長泰(ながやす)も四年前に死に長泰の子、成田氏長(うじなが)が十七代目の当主となっていた。』

天正十八年(1590年)、豊臣秀吉は、天下統一のために、小田原攻めを下知します。小田原は、北条早雲以来100年の歴史を持つ関東の覇者でした。その版図は、現在のちょうど関東一円と東海の一部に及ぶ、大小100以上の支城を要する大家でした。武州忍城は、そのうちの一つです。小田原攻めの総兵力は、約二十五万とされ、これに対して、北条方は、僅か約四万とされています。まあ、この手の「文書(もんじょ)」は、大概に、水増しされているのですが、それにしても彼我の差は、歴然でした。小説の舞台は、この小田原攻めの局地戦である支城の武州忍城です。
当然のことながら、武州忍城では、豊臣に城を開けるか、あくまで抗戦するか?小田原評定のスモール版が繰り返されますが、当主氏長は、裏で秀吉に誼(よしみ)を通じながら、坂東武者としての体面を保つために、北条からの要請を受け入れ、500騎を引き連れて小田原城へ出向きます。その時、城代として城に残る従兄弟の長親(ながちか)には、豊臣方が攻めてきた時は、城を開け渡すように言い含めていました。いよいよ、この小説の主役である長親の登場です。

『男の名を、正木丹波守利英といった。成田家一の家老である。
(あの馬鹿が)
 丹波は、怒気を発しながら馬を走らせていた。馬蹄をとどろかせ東の城門、長野口に着くと、
「長親を見なんだか」
 門番に問う、というより怒鳴った。
 長親とは、成田家当主、氏長の従兄弟にあたる成田長親のことだ。
「のぼう様でござるか」
門番は首をかしげた。』

「のぼう様」というのは、「でくのぼう」の略です。長親は、家臣、百姓、領民から「のぼう様」と呼ばれていました。呼ばれれば、返事をして、当人は、一向に意に介していない。そんな男が、当主のいない忍城の城代として、秀吉の攻め方である石田三成と対峙することとなりました。城方は、城内に呼び込んだ百姓、領民を含めても千人程度。一方、寄せての三成は約二万人。三成方は、城を包囲して、軍使を差し向けますが、「のぼう様」、何を想ったか、軍使に対して、「戦いまする」との返答。この一言で、忍城の攻城戦が、始まりました。
和田竜さんの歴史小説ですが、「面白い」の一言です。歴史小説は、作品によっては、まるで、歴史の教科書のようなものもあります。しかし、和田さんの作品は、脚色が、面白い。小説ですから、史実に忠実では、それは、「つまらないもの」になります。歴史小説の大家には、そういった作品が多くなります。それも、若い時には、そうでもなかったのに、大家になるにつれて、そうなっていくのは、多分、クリエイトする力の衰えによるものだと思います。しかも、大概、内容がしつこくなる。誰というわけでもなく、その傾向だと思います。是非、和田さんは、まだまだ、クリエイトしながら歴史小説を書いていただきたいと思います。