台風18号の風のため、わかい(青い)ドングリが風で引きちぎられて、歩道に散っていました。ドングリには、まだ、季節が早いです。
僕は、学生時代を含めて、東京周辺(世田谷の桜上水、川崎の武蔵小杉、千葉の検見川)に通算で17年程住んでいました。銀座、新宿、六本木、渋谷などへは、ちょくちょく遊びに行きましたが、残念ながら、上野へは、ほとんど、行ったことがありません。さらに、残念ながら、不忍池付近は散策したことはありますが、なぜか、寛永寺には行ったことがありません。そういえば、鶯谷、根津界隈をウロウロしたことはありますね。でも、寛永寺は、ないのですね。今は、関西に住む僕は、もう、行く機会はないでしょう。
久しぶりの歴史小説です。吉村昭さんの歴史小説は、まことに歴史の教科書のように緻密な状況説明の連続で、なかなか、読みにくい代物です。以前、「生麦事件」を読了した時も、同じ感想を持ちましたが、「彰義隊」も同感ですね。実は、「天狗争乱」を読んでみたいと思っていますが、どうでしょうか?
『寛永寺は、二百四十三年前の寛永二年(1625)、江戸城を守るため比叡山延暦寺になぞらえて東叡山寛永寺として創建し、やがて幕府の墓所をかまえた。
根本中堂には後水尾(ごみずのお)天皇の書かれた寛永寺の額をかかげ、代々輪王寺宮法親王(りんのうじのみやほつしんのう)が一山を管領した。
輪王寺宮は、弘化四年(1847)二月十六日、伏見宮邦家親王の第九子として生まれ、翌年、二歳にして孝明天皇の父仁孝天皇の猶子となった。慶応三年(1867)、孝明天皇の皇子睦仁親王が即位し、後の明治天皇となるが、輪王寺宮は睦仁親王の叔父にあたる。』
徳川慶喜が、鳥羽伏見の戦いで敗れ、大阪から海路で江戸に戻り、すぐに、寛永寺で謹慎します。輪王寺宮は、慶喜の助命嘆願のため、駿府まで出向きますが、東征大総督有栖川宮熾仁(たるひと)親王は、逢うことすら拒否しました。有栖川宮は、かって、和宮の婚約者であり、徳川には、遺恨があったのです。その後、官軍は、江戸へ無血入城し、慶喜は、水戸で謹慎することになりました。それとともに、江戸は、一時、無政府状態となり、官軍の諸藩の兵士の狼藉が著しくなってきました。
旧幕臣で組織された彰義隊は、江戸の治安を守るために活動していましたが、官軍の諸藩の兵士との衝突が多くなり、やがて、寛永寺に立て籠もった彰義隊と官軍の諸藩との戦となりました。輪王寺宮は、この戦から逃れて、諸所を転々としますが、最後は、仙台に辿り着き、会津藩をはじめとした奥羽同盟の盟主となりました。皇族でありながら、朝敵として、この時代を生きていたわけです。
この小説は、「彰義隊」というタイトルですが、主役は、輪王寺宮です。いわば、輪王寺宮の逃避行の記録のようなものです。歴史小説家は、埋もれた歴史の事実を小説として、よみがえらせます。もちろん、事実と言ったのは、この小説の中でのことです。事実と真実は、違います。真実は、もう、誰も知ることはできません。そして、真実は、決して、一つではないということです。輪王寺宮にとっての真実は、何だったのか?それは、もう、知る由はありません。