「軍師の門」(上・下)

tetu-eng2013-05-12

「軍師の門」(上・下)
 火坂雅志 
 角川文庫
(上)平成24年11月30日三版発行
(下)平成25年1月15日四版発行
(上・下共)705円(税抜)

今年は、伊勢神宮式年遷宮とのこと。昨年、お伊勢参りをしましたが、今年も、是非、お参りしたいものです。五十鈴川の川べりの散策も魅力ですね。とにかく、お伊勢様の周辺は、なぜか、不思議な力を感じます。パワースポット!
二人の軍師。竹中半兵衛黒田官兵衛の物語です。
竹中家は、斎藤道三の被官である。半兵衛の父重元は、西美濃大野郡の大御堂を根城とする地侍であったが、本家筋の岩手弾正を滅ぼし、不破郡一帯六千貫を領するようになった。居城の菩提山城は、東山道(のちの中山道)が通る関ヶ原を見下ろす交通の要衝にある。

竹中半兵衛が秀吉に仕えるようになった時期については、諸説がある。
 『武功夜話』によれば、松尾山に隠棲していた半兵衛のもとを秀吉がたずねたのは、元亀元年(1570)のことであるという。秀吉は、三度にわたって庵に足を運び、いわゆる三顧の礼をもって半兵衛をみずからの軍師に招いたとしるしている。』

 劉備玄徳が諸葛孔明を軍師として招いた「三国志」の故事に倣って、のちの世の人が、覚書に記したものです。「武功夜話」は、尾張土豪前野家の古文書であり、安土桃山時代に書かれたものか疑問もあるそうです。歴史は、そういた様々の古文書の研究により、歴史学者がある程度の推測を交えながら作り上げていきます。
 
 そのため、新たな古文書の発見などにより、歴史は、簡単に変わることがあるのです。たとえば、歴史の教科書に載っていた「源頼朝」や「足利尊氏」の肖像画は、今では、違う人物であるというのが定説になっています。さらに、小説家が、脚色を加えて、歴史小説を書き上げるので、私たちは、歴史の真実に辿り着くことはできません。まあ、この目で見ることができる真実は、親・子・孫の三代程度なので、左程、大した問題ではないのですが、これが、国レベルになると歴史観外交問題に発展するのですから、困ったものです。って、話が、とんでもない方向に行ってしまいました。

 小寺官兵衛は、もともと小寺姓を名乗ったわけではない。先祖は、近江の国伊香郡黒田郷を本貫地としていたので黒田の苗字を名乗っていた。官兵衛の父である職隆(もとたか)の代に播磨の国の御着城小寺政職(まさもと)の家臣となり、小寺姓を与えられ、支城の姫路城をあずかっていた。官兵衛の代となり、中国毛利への侵攻を企てた羽柴秀吉に従属することとして、半兵衛と官兵衛の「軍師二人」が相並ぶこととなった。半兵衛は、志半ばで病のため早逝するが、官兵衛は、のちに黒田如水として福岡城の城主となる。

黒田如水は晩年、筑前福岡城三の丸の御鷹屋敷で、家老の栗山四郎右衛門を相手に次のような言葉をもらしている。
「わしは、大海に浮かぶ一片の氷のように孤独であった。しかし、自分に似た男がこの世にただひとりだけいた。それが、わしの心のささえであった」
「どなたのことでございます」
 四郎右衛門の問いに、
「わからぬか」
 如水は、玄界灘の潮風に翼をひろげて舞う鷂(はいたか)を見上げて笑った。
「もしや、その御仁はとは美濃の・・・・」
「そう、あの男よ」
 如水は太く息を吐いた。
「わしはあの男を生涯の友と思っていたが、はからざりしことに、生涯の恩人となってしまった」』

そして、2014年、NHK大河ドラマの主人公は「黒田官兵衛」なのです。