禅的生活
    玄侑宗久(genyu Sokyuu)
 ちくま新書
 2013年2月1日第21刷発行

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この本、神戸外国語大学(kobe foreign studies)の図書館で借りました。まだ、読んでいる途中です。

ぼくは、特に、用事がない時は、午前中は、流通科学大学の図書館、(昼食は、もっぱら大学の食堂を利用)、午後は、神戸外国語大学の図書館を利用しています。流通科学大学の図書館は、私立だけにお洒落な感じがしますが、すこし、空調が効きすぎています(学生の利用は少なめ)。神戸外国語大学の図書館は、市立の施設だけに、いわゆる公立図書館という感じです。夏は、空調の効きがあまりよくありません(外大だけに、学生は、電子辞書を片手に洋書を読んでいます。)。

なぜ、図書館の「はしご」をするか?

うむ、単に同じ場所だと飽きるので、釣り人が「河岸」を変えるのと同じでしょう。本を読むのも、同じ環境で居続けるよりは、環境を変えることにより、気分がリセットされて、より集中できるからです。って、ほんとかな?

さて、玄侑宗久さんですが、「中陰の花」で芥川賞を受賞した作家さんです。もちろん、名前から分かるように臨済宗のお坊さんでもあります。というか、お坊さんが小説を書いたといったほうがいいのかも。お坊さんと物書きを兼ねているので、仏教的な書き物も解りやすくなっているのではと、思って、この本を借りてみました。なお、「中陰の花」は、まだ、読んでいないので、早速、本棚の奥から出してきて、待機させています。所蔵しているのが不思議。

また、また、なぜ、「禅的生活」なのか?

ぼくが、毎週、土曜日、太山寺塔頭の龍象院で「坐禅」をやりだして、もうすぐ2年です。しかも、「坐蒲(ざふ)」(坐禅のときに使用する専用の座布団)をアマゾンで購入して、毎日、瞑想にふけっています。ところが、今になって、「禅」とはなにか?ということを考え出したのです。「坐禅」の「坐」は、座ること。ならば、「禅」とはなにか?このことを、無性に知りたくなったのです。

達磨大師は、「面壁九年」といって、洞窟の壁に向かった九年間、座り続けて、手も足も退化したらしいです。まさか、そんなことはできないし、20分、座っているだけで、モゾモゾしてきます。宗久さんによると、どうも、座禅のとき「半眼」にしますが、ここに意味があるらしいです。「半眼」にすると、視界が「うすらぼんやり」としてきます。そうすると、視覚情報が曖昧となり、認知機能が制約される・・・すると、どうなるか?「無」の境地になれるのか?そもそも、「無」の境地って、なに?・・・あ~!わからん!

そんなことを考えながら「禅的生活」を読んでいますが、この本、祖師方のお悟りの表現をシャワーのように読者に浴びせかけて、宗久さん流の解説を試みています。そして、結論は、つねに、宗久さんも解らないらしいということです。やはり、「面壁九年」の修行が、必要ですかね。たかだか、毎日、20分やそこらでは、「悟り」の境地には、1万年ぐらいかかりそうです。

こんなことを考えながら、「秋の夜長」を過ごすのも、また、一興。