「寂聴 般若心経 生きるとは」
中公文庫
1991年10月10日初版発行
2017年7月15日第24刷発行
ぼくが、毎週、太山寺の別院の龍象院で坐禅をしているのは、何回も、ブログに書いているのでご存知のとおりです。30分ぐらいの坐禅ですが、足を組んで、半眼で、瞑想するという時間は、普段の生活の中ではないシチュエーションです。
とくに、「りん」の音がいいですね。最近、住職が、10分ごとに小さく「りん」を鳴らしてくれるので、呼吸の回数で時間を測れるようになってきました。坐禅は、宗教的意味を求めなくて、瞑想をする手段として、いいのではないかと思います。
えっ、何故、坐禅をするのか?ぼくの場合は、不安神経症の改善のためのメンタルトレーニングを意識しています。が、坐禅によって、改善されたかどうか?それは、解りませんが、何かを求めるのではなく、ただ、そこで座る。「只管打坐」(ひたすら座る)、が坐禅のビギナーズマインドらしいです。
ぼくも、あれこれ考えずに、足を組んで、耳を澄まし、虫の声、木々の葉擦れの音、雨の音、ヘリコプターの音、車の音、ヒトの声、鐘の音などを愉しむことを心がけています。もう、3年になりますが、いつも、いつも、同じ心持ちで座れることはありません。
ときには、足がうまく組めずに、途中で、痛くなることもあります。背筋を伸ばしているので、背中が痛くなることもあります。顔がかゆいこともあります。うっかり、寝落ちしてしまうこともあります。だから、どうだってこともないのです。
「無心」になんて、なれるわけありません。だいたい、「無心」になるって、どういうこと。脳が何も考えないということ、あり得ません。脳では、1日に約8万件の雑念が浮かぶそうです。寝ているときも、浮かんでいるそうです。そんな脳の活動がなくなるのは、冥途に行ったときでしょう。
なんて、突然ですが、余談はこれぐらいにして、ぼくは、ときどき、ご先祖さまや、近頃、亡くなった相棒の写真に「般若心経」を唱えています。それなのに、「般若心経」の意味が解っていない。これは、いかがなものかと考え、解説本を探しました。
宗教本は、敬遠して、小説家で出家している人・・・瀬戸内寂聴!ありました。30年前の出版ですが、重版、重版の23刷。ベストセラーですね。ご存知、瀬戸内寂聴さんは、京都に寂聴庵を開山して、そこでの法話などの活動は、大変な人気を博したらしいです。いま、九十八歳となっても、ときどき、テレビで拝見することがありますね。
この本は、もちろん、「般若心経」の解説もありますが、寂聴庵での法話を、たぶん、「寂聴だより」をまとめたものだと思います。軽妙な口調の法話は、とても、面白い。現代話などにも置き換えながら、聞いている人を(読む人を)飽きさせないのは、さすがに、小説家です。
『お経を写すことを写経、持つことを持経、口であげることを誦経といいます。そして、この三つはお経の功徳があるといわれています。功徳とは本来すぐれた宗教的、道徳的特質ということですが、神仏のご利益とも解釈するようになっています。
持経、誦経、写経、そのどれもが自分の心を落ち着かせ、平常心をよみがえらせ、そこから物事の正しい判断を生むと、私は解釈しています。』
うむ、持経、誦経、は、実践ずみ。今度、写経にチャレンジしましょうか。
そうそう、「南無阿弥陀仏」ってどういう意味。「南無」とは、帰依する、信頼するという意味で、「阿弥陀仏さま」を信頼するという意味らしいです。また、ひとつ知恵がつきました。