「切羽(kiriha)へ」

切羽へ

「切羽(kiriha)へ」
井上 荒野(Inoue Areno)
新潮社
2008年5月30日発行
1500円(神戸市立西図書館)

2008年、第139回直木賞受賞作。井上荒野さんは、主に、児童文学や絵本の翻訳をされている女流作家です。小説家井上光晴の娘さんだそうですが、井上光晴さんの小説は、読んだことはありませんが、その名前は、瀬戸内寂聴との関係が噂された人物と云うことで記憶にある程度です。
この小説の舞台は、荒野の父・光晴が育った長崎の崎戸島です。崎戸島は、炭鉱の島で、戦前は強制連行された朝鮮人や中国人などが、抗夫として働かされた歴史があり、「監獄島」「地獄島」などの異名があるそうです。炭鉱は、廃坑となり、今は、廃墟となった炭鉱住宅が丘の上に立ち並んでいる映像をテレビのある番組で見たことがあります。

『この島には丘が多い。
 小学校に行くまでに私は丘を三つ超える。
 二つ目の丘の上には、病院の廃墟がある。黒くすすけ、下半分は蔦に覆われた、大きな建物だ。窓ガラスは全部割れるか、取り払われたかして、がらんとした室内がのぞいている。壊れた障子の桟や、割れた鏡や、足だけのベッドが見える。
 小さな頃も同じ道を通って同じ小学校に通っていたが、この道を通るのが怖かった。かつて大きな産業が栄え、そして衰退したこの島には、いくつもの廃墟があるが、一つ一つにまことしやかな怪談がまとわりついていて、病院にはとりわけ気味が悪い話が多かった。』

麻生セイは、島の小学校の養護教諭。小学校は、校長先生、教頭先生、月江先生の3人に生徒が9人です。夫の陽介は、画家。二人は、セイの亡くなった父の診療所に住んでおり、かっての父の診察室は、今は、陽介のアトリエとなっている。セイと陽介は、島で、穏やかで、幸福な日々を送っていた。三月、卒業式が終わり、四月の入学式のある日、小学校に新らしい先生が転任してきた。石和聡。
ここまでの紹介で、セイと石和先生との不倫小説と早合点すると思いますが、やや、その雰囲気はありますが、ドロドロとした不倫小説ではありません。セイは、標準語の石和先生のことが、何となく、気にかかりますが、・・・。小説としては、不完全燃焼という感想は、否めません。清々しい、好意をもつというのでもなく、不倫というのでもなく、読み終わって、タイトルほどの切羽詰まった恋愛でもないし、そういう意味では、深みに欠ける作品だと思います。
ただ、小学5年生から中学2年生まで、博多に住んでいた私には、小説全体が、九州弁での会話だったので、何となく、懐かしさを感じました。

『セイと石和先生とのやりとり
「いつか、母があの中(トンネル)で、十字架を拾ってきたとですよ」
私は言った。
「綺麗か、めずらしかものやった。こがんもんばどがんして見つけてくるとかねと父が驚いて、そしたら母は、切羽まで歩いていくとたい、と自慢したと」
「切羽(きりは)?」
「トンネルを掘っていくいちばん先を、切羽と云うとよ。トンネルが繋がってしまえば、切羽はなくなってしまうばってん、掘り続けている間は、いつも、いちばん先が、切羽」
石和から返事は返ってこなかった。頷きさえしなかった。私などいないように海のほうを見ていた。そのことは予測できたー』