「心軽やかに老いを生きる」

tetu-eng2013-01-27

「心軽やかに老いを生きる」
江坂 彰
PHP文庫
2012年10月19日第1版第1刷
571円(税別)

新幹線に乗る前に、新神戸のマルシェ(駅ナカのショッピングモール)で、時間待ちのため、本を立ち読みしていて買った本です。江坂彰さん(経済評論家)のエッセーですね。江坂さんは、七十五歳を超えられて、後期高齢者の仲間入りをしたそうです。そこで、七十歳からの人生を振り返り、また、これからの人生を、どう生きていくのかを軽妙な筆致で綴っています。私は、今年、還暦ですから、まだ、まだ、「ひよこ」ですが、子供が独立して、二親が、天国に召された、これからを、細君と二人で、どう生きていくか?そろそろ、真面目に考えなければなりません。そんな私に、「うむ」と考えさせるヒントを与えてくれました。

人生八十年社会に成熟して、これからの二十年は、希望に燃えた二十歳からの二十年、生活を支えた四十歳からの二十年、それぞれとは様子が、まったく違います。家を買ってローンを返済する。子供を社会人へと育て上げる。会社で成果を上げる。それが、一人の大人として、社会への貢献でした。しかし、これからは、定年と共に、収入が減少し、やがて、年金生活となります。いわば、曲がりなりにも右肩上がりの生活から、ブレイクダウンしたフラットな生活へと変わっていきます。もちろん、孫ができれば、また、違ってくるのかもしれません。
少し、この本からのヒントを紹介しましょう。

白洲次郎さんがいった、「夫婦はいつも一緒のいないことが長続きの秘訣」という言葉がおもしろい。夫婦は一緒の趣味を持ったり、一緒に行動しないことをすすめている。
 親子関係は切っても切れないものだが、夫婦関係は人工的なもので、元は他人。だからこそ、女房とはホンネでしゃべり、たまにはほんとうの自分を見せないとしんどいものだ。「裏を見せ 表を見せて 散る紅葉」(良寛)でいきたいもの』

夫婦は、同じベクトルを目指して、ものを考えたり、行動したりするのは愚の骨頂。別々の道を歩きながら、ときどきは、意気投合して合流するのがいい。大賛成です。合流した時、お互いが新鮮に思えるし、仮に、どちらかが欠けた時も、ダメージが少ないということでしょう。

福沢諭吉は、「莫逆の友なし」。莫逆の友、つまり親友がいないというのだ。人に「この人が親友です」なんて紹介したら、皆しらけてしまう。親友とは運命的な出会いをして「走れメロス」ではないがその人の身代りになることを厭わないほどの人のこと。これは少ない。福沢が「いない」というのもむべなるかな。
 長きにわたって信頼関係を築くのが「友人」。その場その場でキブ・アンド・テイクで成り立つ関係、これが「知人」。どちらも必要だが、極端な話、知人だけでも十分ではないかと私は思う。』

これは、ちょっとどうかな?確かに、「親友」は、難しい。細君だって、身代りにはなってくれない。でも、「友人」は必要でしょう。不義理をしても許してくれる程度の関係は、欲しいものです。すべてが、キブ・アンド・テイクで割り切られる関係では、寂しいかもしれん。

『現役時代は、目の回るような忙しさの中に、ささやかなゆとりと楽しみを探していた。これは、「忙中閑あり」。定年後は、たっぷりと手に入った時間の中に仕事の忙しさを上手に取り入れる。これが「閑中忙あり」。不況の時代、年金不安の時代でも、六十歳からはこれでいきたいものだ。』

最後は、難しい。皆が考える理想ですが、具体的にどうすればいいのか?が悩ましい。それでも、「忙中閑あり」の時に、考えておかなければ、戸惑ってしまうことになる。さて、ぼちぼち、この大きな宿題を考えてみましょう。