「はじめての親鸞」

tetu-eng2016-07-17

「はじめての親鸞
五木 寛之
新潮新書
2016年3月20日初版

13日(木)から、細君は、実家に帰りました。

って、別に、何があったということではなく、単なる夏休みの帰省です。義母が、健在なので、いまは、2か月に1回程度、親孝行のため上京しています。ぼくは、もう実家はないので、年に2回の墓参りが帰省ですね。すっかり、神戸が、ぼくの住処となりました。

細君がいないと、なぜか、会社にいこうという気力がなくなります。その結果、14日、15日、と夏休みをとって、18日(海の日)まで、5連休になりました。GWの6連休以来ですね。あっ、そういえば、そのときも細君がいませんでした。会社を休んで何をやっているのか?といえば、大概、ウクレレを弾いているか、本を読んでいるか、ゴロゴロしているか、要するに、休んでいるのです。

でも、毎日がこんな日になったら、どうするのかなって考えると、ちょっと、悩んでしまいますね。明日行くところ、明日の用事があるから、休みなので、それがなくなったら、休みと言わないでしょう。じゃあ、何て言うのでしょうか?「毎日が日曜日」って小説がありましたが、読んだときは、遠い先のお話でしたが、もうすぐぼくの現実になってしまいます。

余談が辛気臭くっていけないね。って、江戸っ子みたいな表現ですが、細君の実家は、葛飾柴又の近くなので、寅さん風ですね。そして、読書雑感は、「はじめての親鸞」って、一転、抹香臭くなります。

親鸞」といえば、浄土真宗の開祖であることは、教科書に書いてあります。ぼくが、「親鸞」を知ったのは、もちろん、教科書ですが、そのあと、高校生の頃に、吉川英治の「親鸞」を読んで、さらに、倉田百三の「出家とその弟子」を読み、親鸞に傾注した思い出があります。歴史上の人物で一番に書物になっているのは、誰でしょう?はい、「親鸞」です。ピンポン。そうらしいです。

五木寛之さんも、大作の「親鸞」を上梓していますが、ぼくは、吉川「親鸞」の鮮烈な感動を忘れたくないので、敢えて、読んでいませんが、この本を読んで、五木「親鸞」を読んでみようかなと、心が動いています。この本は、2015年、五木さん御年八十三歳の講演会の記録です。

三講演が収録されており、「第一講 親鸞を想う ―― その時代と人々」「第二講 親鸞とは何者か ―― 「悪」を見つめて」「第三講 親鸞のほうへ ―― 仏教と人生をめぐる雑話」という構成です。

『仏教思想の根本は、すべてのものは常に変化する、ということです。すると親鸞も変化し続けているし、十年前にこう言った、十年後はああ言った、とそれらすべてに整合性を求めるのは無意味です。自然は、人間は変化するものなのです。
親鸞だって心の中で揺れたりぶれたりしたことはあったでしょうし、つまり、動的に人間を捉えるということがすごく大事だと思うのです。
親鸞はこう言った、ああ言ったなどとこだわるばかりで、親鸞の思想を固定してしまい、決めてしまうのは大きな間違いだと思います。生きた形で、揺れ動く、そういう親鸞の思想を私たちは捉えなくてはならないと思うのです。』

「善人なをもて往生をとぐ、いわんや悪人をや」南無阿弥陀仏