「送り火」(第159回芥川賞)

tetu-eng2018-08-19

送り火」(第159回芥川賞
高橋弘希
文藝春秋9月号

お盆休み。

下関に墓参りに帰省。

親父が亡くなって13年、お袋が亡くなって5年、早いものです。お袋の亡くなる前後は、まだ、記憶が鮮明ですが、親父については、もう、あまり覚えていないのは、なんとも、薄情なことです。人間に与えられた恩寵として、「忘却」があります。人間は、忘れることで、明日を生きることができる。誰が言ったかは忘れました。

「Gone With The Wind」の名言は、「明日は明日の風が吹く」・・・類似語「ケセラセラ」「平々凡々」「行雲流水」などなど。うむ、話が変な方向に行きそうなので、Uターン。

毎年、この時期、芥川賞の発表があり、文藝春秋に全文が掲載されます。帰省の新幹線の車中で、発表されて、ほかほかの芥川賞の受賞作品を読むのが楽しみです。行きと帰りの時間で読みきれるのが、ちょうどいいのです。

さて、今年の受賞作は、「送り火」って、ストーリーは、お盆とは関係ありません。都会から田舎へ転校してきた、転校経験豊富な中学3年生の主人公は、田舎の少人数のクラスの中で、上手に溶け込んで生きます。しかし、この田舎の中学校の子供たちのなかでは、奇妙な遊びが流行っていました。主人公は、じょじょに「この奇妙な遊び」に引き込まれていきます。

「この奇妙な遊び」、最初は他愛もない内容でしたが、そのうち、「いろいろと暴力的な」色彩を帯びてきます。しかも、主人公が標的ではありませんが、「いじめ的な」要素も感じられるようになります。「この奇妙な遊び」のなかに、なんともいえない不安、不吉な匂いが漂ってきます。

送り火」では、「この奇妙な遊び」が小説の進行のアイテムになっています。読み手は、「この奇妙な遊び」のなかから、ストーリーの行き先を想像しますが、思いもよらない、とんでもない暴力的な事件が待ち受けているのです。

小説は、するすると読み進めるのですが、さて、この小説のテーマは何なのか?と、立ち止まって考えると、「この奇妙な遊び」ばかりが際立ってしまい、結局、最後まで判らずじまいになったのは、ぼくの読解力不足でしょうか?

それにしても、最近は、暴力的な作品が多いのは、何故でしょうか?「この奇妙な遊び」のまねをする人がでないことを祈ります。

話は変わりますが、今週の話題で一言言っておきたいことがあります。

下関国際と岡山創志館の試合で、創志館の西投手の過度なガッツポーズを審判が注意したこと。確かに、試合を観戦していて、ぼくは、西投手のガッツポーズには、不快な感じがしました。ガッツポーズは、自分を鼓舞する意味もあるかもしれませんが、相手チームに対して、「どうだ!」というように挑発し、威嚇する意味もあると思います。

彼のガッツポーズは、ぼくには、後者に見えました。彼自身には、そのようなつもりはないのでしょうが、審判も同じように感じたのだと思います。スポーツに限らず、また、アマ・プロの関係もなく、勝負事というものは、相手へのリスペクトを失ってはならないのです。西投手は、まだ、2年生。スポーツマンシップを、原点に立ち返って考えてみては如何ですか。

なお、ぼくが、下関出身だから、下関国際に肩入れをしているのではありません。あしからず。