「騎士団長殺し 第2部 遷ろうメタファー編 上・下」

騎士団長殺し 第1部 顕れるイデア編 上・下」
騎士団長殺し 第2部 遷ろうメタファー編 上・下」
村上 春樹
平成31年3月1日初刷発行
平成31年4月1日初刷発行
新潮文庫

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平成の最後を飾った(ちょっと、オーバー)読み物は、村上春樹の長編小説「騎士団長殺し」でした。文庫本で、全4巻。久しぶりの長編小説です。「イデア」と「メタファー」。「イデア」は、観念。「メタファー」は、「暗喩若しくは隠喩」。


第1部「顕れるイデア」で、絵に描かれた騎士団長が「私」の前に顕れて、第2部「遷ろうメタファー」で、「私」は、地底と思われる暗黒の世界(「メタファー」)をさまよう。それが、すべて、「私」の「こころ」の世界で繰り広げられるのではなく、現実の事象として体験することになる。

 

まったく、意味がわからないと思いますが、読んだぼくも、意味がわからない村上春樹のワールドなのです。現実では、絶対(絶対といえるかどうか?)に起こりえないこと、絵に描かれた人物が現れて、「私」と話をするなんてこと・・・でも、そういうことが、実際に起こったら、どうすればいいのか?


たとえば、フェルメールの「真珠の耳飾りの少女」がぼくの部屋で、ベッドの横に座って話しかけてきたら、・・・それはそれで、興味深いことではあります。でも、そのあと、彼女に誘われて、地底でも天上でもいいけれど、さ迷い歩くことを強いられたら、それは、嫌ですね。

これって、「不思議の国のアリス」みたいだし、「地底旅行」みたいだし、「海底二万マイル」みたいでもある。でも、村上春樹のワールドは、そういうことではなく、いわゆる「精神世界」の具現化みたいなものではないかな。ある意味、ユンクやフロイトなどの精神分析の物語版のような気もします。

『「私が生きているのはもちろん私の人生であるわけだけど、でもそこで起こることのほとんどすべては、私とは関係のない場所で勝手に決められて、勝手に進められているのかもしれないって。

つまり、私はこうして自由意志みたいなものを持って生きているようだけれど、結局のところ私自身は大事なことは何ひとつ選んでいないのかもしれない。」』

 

まるで、「運命論」のように思えるが、ぼくたちの人生は、「イデア」と「メタファー」に支配されているということらしいです。

あ~、難しい小説でした。村上春樹の小説を読んだ後は、いつも、「何かを」考えることになる。それが、村上春樹の狙いなのでしょう。いっときは、飲んだときに、『ぼくたちの人生は、「イデア」と「メタファー」に支配されている』が口癖になりそうです。